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2009年5月25日 (月)

校内マラソン大会とモータリゼーション

高校生のとき 校内マラソン大会がありました。勿論 42.195kmではなく 男子は 10kmを全学年の全生徒が一斉にクラス対抗で走る競技会でした。

私は 直観力と瞬発力(短距離走,走り幅跳びなど)には自信がありましたが,心身ともに 持久力が劣っていることを小学生の頃から自覚しており,体育の時間に体育の教師が言いがちな 「苦しいのは自分だけではない,他の人も同じように苦しいんだから頑張れ。」に 疑問を持っていました。他人の苦しさは知る由はありませんが,人それぞれ向き不向きがあって 苦しさが同じわけがないと思っていました。

高校1年生で 10kmを走るとき,同じスピードで45分も走り続けるのは自分には不可能,故に ここはインターバル走法で行こうと考え 実行しました。10回以上歩きました。それでも 死ぬ思いをしました。

2年生になり,「何とかここはパスしよう。自分の命は自分で守るしかない。」と考え,ちょうど軽度の足の水虫だったので 医者に行き,診断書を書いてもらいました。このとき,「病名は ドイツ語でお願いします。」と注文をつけました。この診断書を体育教師に提出し,「右足に問題があって 医者に重度の運動を止められているので,マラソン大会には参加できません。」で通過。

3年生になり,水虫は 既に治っていたので 今度は どの手を使おうかと考えていました。そして 「天は我に味方しました。」  900人が一斉に走るマラソン大会は当然,車道を走るため 予め 警察にコース申請をして許可を得る必要があります。ところが 車が増え 交通事情が悪くなったため,複数のコースを申請したらしいのですが,どのコースも許可が下りず,中止になったのです。

昭和41年(1966年)でした。

車の数はこの頃から急速に増えていきました。

政府の国民車構想に沿って 一般国民をターゲットにして サラリーマンが買える車として 700ccの トヨタ・パブリカが発売されたのが 昭和36年(1961年),800ccのUP20型にモデル・チェンジしたのが 昭和41年(1966年)でした。

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