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2013年9月 2日 (月)

「日本は私たちを忘れなかった。」

韓国裁判所の,三菱重工や 新日鐵住金に対する戦時徴用賠償金支払い訴訟で,1965年の日韓基本条約とそれに伴って支払われた賠償金を無視した,法治国家とは思えない原告勝訴の判決が下されています。(最高裁は未。)
因みに,2003年8月に韓国・外交通商部は 「1965年の請求権協定合意議事録に強制徴用者の部分が含まれ,政府は新聞公告を通じて 1975~1977年に補償を実施した。」と宣言し,2007年には 「太平洋戦争戦後国外強制動員犠牲者支援法」を作り,2次補償を行なっています。
行政と司法の矛盾・争いという国内問題に対して
,日本の企業に責任を負わせ,補償金の二重取りを企むという,常識では考えられない国家的犯罪行為が進んでいます。

ところでー
台湾・中央通訊社の「フォーカス台湾」(6月17日)に 『日本は私たちを忘れなかった』台湾の元少年工に勲章伝達」と題する記事がありました。

日本政府の今年春の叙勲で旭日小綬章を受章した台湾高座台日交流協会の李雪峰理事長(86歳)への伝達式が17日,日本の出先機関である交流協会台北事務所であり,樽井澄夫代表(大使に相当)から勲記と勲章が伝達された。戦中に台湾少年工として日本の海軍工場で働いた李さんは「日本は私たちを忘れなかった,とても嬉しい」と挨拶し,当時製造した戦闘機「雷電」をモチーフにしたネクタイで笑顔を見せた。

台湾高座会は,台湾の元少年工らの同窓組織。第二次世界大戦末期の1943年,台湾から8000人以上の少年が工場要員として“内地”入りし,神奈川県の高座海軍工場で訓練を受け,各地で戦闘機の生産に従事した。リーダーだった李雪峰さんは帰台後も日本との交流を願い,結社が禁じられていた戦後の台湾で仲間たちと連絡を取り合い,戒厳令解除翌年の1988年に高座会を立ち上げた。定期的に日本で大会を開き,また日本各地の民間団体と交流し台日の友情を育んできた。

『日本統治下の台湾で厳しくも愛にあふれた教育を受けた。日本人であることを誇りに思っていた』という李さんの自慢は,有能な少年工として雷電の製造に奮闘した日々。メンバーは高齢化し,設立当初は3000人を超えた会員数も今では1000人以下になってしまったが,この日,会場には20人以上の仲間がそろいのネクタイで駆けつけた。

空をイメージする上品な濃紺に,銀色の雷電が光るネクタイに話を向けると,緊張気味だった李さんはようやく顔をほころばせ,日本語でこう語った。『2000年に記念品として作りました。雷電は私たちの誇りであり,最高の想い出。何の約束もしていませんが,今日はこのネクタイの日だとみな分かっているんです。』

この同窓組織「台湾高座台日交流協会」は,1993年から10年毎に日本で記念大会を開いており,出席者は 第一回 1,400人,2003年の第二回  600人と減って,今年(2013年)は 250人だったそうです。
5月5日のこれを報じる記事は 「『10年後にまた日本で会おう!』という合言葉も叫びにくくなり,『これが最後』との想いを込めて今大会の準備してきたと,秘書長の謝清松さんは感慨深げだ。2人の元“少年”工はそれでも,笑顔で最後にこう語っている。『みなもう遠くに行くのは難しくなり,解散は仕方がない。でも“また会おう”と言いたい』。 と結んでいます。

台湾と朝鮮での日本の統治状況に基本的差があったとは考えられません。

「日本統治下の朝鮮で厳しくも愛にあふれた教育を受けた。日本人であることを誇りに思っていた。」と言いたくても 国内の事情で言えないまま逝ってしまう韓国人がどのくらいいる(た)のでしょうか。

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