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2014年2月28日 (金)

小野田寛郎さんの言葉

NHK BSで 2月23日に 「生き抜く 小野田寛郎」が放送されました。

2005年に放送され以来,2008年(2007年?),2010年,2011年にも放送されているようなので 2014年の今回は再々々々放送です。
今回の放送は,先月(1月)16日の 91歳での小野田寛郎(1922~2014)の死去を追悼する放送と思われます。

Hiroo_onodas_surrender番組は 小野田さんへの作家・戸井十月さん(1948~2013,私と同齢,昨年 亡くなりました。)のインタヴューを軸に,小野田さんの経歴と時代背景を実写映像を挟んで 小野田さんの生き方を描いたものでした。

(写真は 1974年3月11日,マルコス大統領に 降伏の証しとして軍刀を差し出す帝国陸軍・小野田少尉。軍刀は この後,小野田さんに返却されました。)

この番組制作時,小野田さんは 82~83歳だったことになります。

小野田さんの経歴は次の通りです。

1939(S14) 旧制海南中学校卒業,「田口洋行」就職,商社員として漢口(現・武漢)支店勤務(17歳)
1942(S17) 和歌山歩兵連隊配属(20歳)
1944(S19) 1月 久留米第一予備士官学校入学
                9月 陸軍中野学校二俣分校入学
                12月 フィリピン派遣・比島派遣軍司令部参謀部付
                       ルバング島派遣・遊撃指揮/残置諜者任務命令を受ける(22歳)
1974(S49) 3月 作戦任務解除命令を受け帰還(52歳)
1975(S50) 4月 ブラジル移住
1984(S59) 自然塾を開く
1989(H1)   (財)小野田自然塾設立
2005(H17) 藍綬褒章受章
2014/1/16 逝去
2014/3/12 「お別れ会」 於 靖国神社「啓照館」(予定)

番組内での印象に残った言葉を列記します。
(表現の細かい部分が異なっていたら失礼。)

「組織には向かないと子供のころから言われていた。」

「一番簡単に言えば,命令で来たんだから命令があるまで止めるわけにはいかない。次に負けたくない,負けるのが嫌いと言う性格。」

「神に助けてくれと頼んだことはない。しかし,正月には神棚を作って神 あるいは万物に感謝した。ありがとうとは言ったが,今年もよろしくとは言ってない。」

「捜索隊のやり方は間違っていた。戦犯になること,あるいは 住民の報復を恐れて出て来ないなど 私を臆病者と見做した説得だった。気持ちを逆撫でされた。これでは出ていけなかった。」

「(留まった)目的は 日本が盛り返すこと。」

(朝鮮戦争とベトナム戦争時,米軍の戦略爆撃機が飛ぶのを見て,日本軍が反撃に出ていると解釈していた。)

「望郷の念はなかった。そもそも17歳で家を飛び出していますからね。」

「60歳が体力的に限界と思っていた。60歳になったらレーダ基地を攻撃し,機銃弾を浴びて死ぬつもりだった。それまでは弾をもたせるつもりだった。」

「出て行ったときには 処刑されることを覚悟していた。胸を張って銃殺されるしかないと思っていた。敗戦・任務解除なので投降はしかたがない,命令に従った。(どの時点で日本に帰れそうと思ったか,の問いに) 地区司令官と島の隊長と一緒に歩きだしたら,歩くのに邪魔になるほど傍を歩いていた。これは 狙撃を警戒して2人が盾になって守ってくれていると思った。」

「鈴木君に 『部落長の息子が椰子の木に登っているところを撃たれて死んだ,と言っているが・・・』 と言われたが,そんな卑怯なことはしないよ。」

「当たらない弾は撃たない。50mまで引き付けないと撃たない。顔を見て撃つのは気が引けるが,銃を向けてくる人間に遠慮はいらない,戦争なんだから。」

「(何故,29年間 頑張れたか?の問いに) できるだけ忘れるようにしているが,兵隊になったから兵隊らしくやった。」

「小塚上等兵が死んで一人になったとき,二人の時のマイナス面と,一人のプラス面を列挙して比較した。一人になって力が半分になったわけではないと自分に言い聞かせた。」

「(30年ぶりの日本は?の問いに) 豊かになったのだから いいんじゃないか。僕のことを気の毒がるけど,本当に気の毒なのは死んだ人でしょう。」

「青春を無駄にしたと言われるけど,前倒しで遊んでいる。済んだことは済んだこと。愚痴っても仕方がない。愚痴れば前に進む力が減るだけ。泣き言や愚痴は大嫌い。」

「(日本を離れようと思わせた一番の理由は何?の問いに) 集まった見舞金を靖国神社にお納めした。亡くなった人を思えば自分がもらうわけにはいかない。これに対して,軍国主義の亡霊,軍国主義に加担している,などと言われた。そんなことを言う人間と一緒に住んでいたくない。とにかく,全部,衝突する。30年 余計な戦争をしたことを地べたに頭を付けて謝れと言うのか。僕が勝手にやったわけじゃあない。謝らなければならないことをやらせたのは国家じゃないか。好き好んで戦争をやったわけじゃあない。国に給料払えなんてことは言わない。戦争だから仕方がない。だからと言って 僕だけが何故 悪者にならないといけないのか,あるいは兵隊が悪いと言われなければならないのか。
しかし,いつまでも喧嘩はしたくない。それには離れるのがいい。」

「目的がなければ挫ける。目的がなければ 小さなことに悩んで切り捨てができない。」

「誰だって 死んで頭の上を踏みつけられたくない。日本という国がなくなったら,そこらへんに墓を作るはずで,簡単に踏みつけられる。先祖から受け継いだ国はちゃんとあってほしい,地球がなくなるまで。」

「(やりなおせたら,やりなおしたいですか?の問いに) やりなおしたって どうせ自分の思うようにいかないんだから。人間として生まれて,その場,その場で それらしく頑張るしかない。何がないからできない,というのは自分の不備不明の致すところ,という心得が中野学校にありましたが,いい教えです。」

内容的には かなり厳しいことを話していましたが,口調は柔らかく,常に笑顔でした。

合理的・理性的で 筋を通す方でした。

終戦後 29年間,投降せず ルバング島に留まった,合理的な理由(単に 「任務解除命令がなかった。」ではなくー)に関する状況と判断の説明部分は省略しました。

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