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2019年12月13日 (金)

N.Y.Times の 中村医師 殺害報道

The New York Times’ が Dec.4,2019付けで “He Showed Us Life’: Japanese Doctor Who Brought Water to Afghans Is Killed” (「彼は我々に人生を示した:アフガンに水をもたらした日本の医師 殺害さる」)の見出しで アフガニスタンでの中村医師の殺害を報じていました。
海外での知名度は分りませんが,‘N.Y.Times’ は長文の記事を掲載していました。

以下 拙訳転載します。

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73歳の中村哲は,ハンセン病の治療のために1980年代にアフガニスタンに訪れた。 しかし,彼は母国日本から持ち込んだ運河建設技術により,多くの人生を変えた。

アフガニスタン,ジャララバード — 彼が助けた人々は彼を「ムラドおじさん」(Uncle Murad)と呼んだ。

中村哲医師は,1980年代にアフガニスタンとパキスタンでハンセン病患者を治療するために日本を離れた。 しかし,彼はその後,深刻な干ばつが 彼の診療所が救うことができるよりも多くの人々を殺していることに気付いた。

そこで彼は新しい使命(calling)を見出した:灌漑。 2000年代に,ほとんど技術を必要としない古い日本の技術を採用し,干ばつによって避難した村人たちが100万人近くの住民の地域を変えた運河のネットワークを構築するのを手伝った。

「医師は患者を一人ずつ治療するが,これは村全体を助ける。」と中村医師は言った。 「生き返った村を見るのが大好きです。」

水曜日,中村医師は,アフガニスタン東部のナンガハール州の州都ジャララバードで働くために車で移動中に,銃撃を受けた。 組織のスタッフの5人が死亡し,中村医師は致命傷を負った。 彼は73歳だった。

「彼はナンガルハール病院で手術を受けたが,いくつかの銃創を受けていた。」と州知事のスポークスマン,アッタウラ・ホギャニ(Attaullah Kyogyani)は言った。 中村医師は,バグラムの米軍基地の医療施設に運ぶために地元の空港に急ぐ途中,死んだ,とホギャニ氏は言った。

アフガニスタンの人道主義者を標的とした一連の攻撃の最新の事例だった。その1週間前,首都カブールで車を襲った爆発で国際連合のために働いていたアメリカ人が殺された。

中村医師の殺害は特に残酷であり,アフガニスタンの周りに悲しみのショックを与え,広範囲にわたる非難を浴びた。タリバンのスポークスマン,ザビフラー・ムジャヒッドは,タリバンの関与を否定し,名乗り出た過激派グループはまだいない。

殺害は,トランプ大統領が9月に中止したタリバンとの会談の再開を宣言した後,国務省がその平和特使 ザルメイ・ハリルザド(Zalmay Khalilzad)を派遣すると発表した日に起こった。

カブールでアフガニスタンの指導者たちに会った後,カリルザド氏はタリバンとの交渉を再開するためにカタールの首都ドーハに行くことになった。
ドーハで,ハリルザド大使は,タリバンとの会談に再び参加し,アフガニスタン内交渉と声明につながる可能性のあるステップを議論することになっていた。

中村医師の死の悲しみは,彼の組織であるピースジャパン・メディカルサービスの活動の多くが集中していたナンガハール州のケワ(Khewa)で深かった。
「彼は私たちに人生を見せてくた - 彼は私たちの土地の建設を手伝った。 彼は私たちのリーダーだった」と,ケワの居住者であるハミデューラ・ハシェミは言った。「彼らは私の最も近い家族を殺したように感じる。 彼らは中村なしの我々を残した。」

10月に中村医師の活動に対して 名誉市民権を授与した,アフガニスタンのアシュラフ・ガニ大統領は,「最大の苦悩と悲しみ」(utmost grief and sorrow)を表明し,犯人(perpetrators)を見つけるよう治安機関に命じた。

日本の安倍晋三首相は,中村医師が行った変革的な仕事を強調し「私は彼がこのように死ななければならなかったことにショックを受けた」と記者団に語った。

彼は 日本の福岡県で生まれ,初めて 東アフガニスタンに行ったのは 30代初めだった。

2003年に彼が受賞した「アジアの精神と変革的リーダーシップの偉大さ」の賞であるラモン・マグサイサイ賞が発行した伝記によると,彼は当初,昆虫に魅了されてアフガニスタンとパキスタンの山岳地帯に引き寄せられた。
彼はすぐに,医療援助の要請に感じた。

医学部を卒業した後,中村医師はパキスタンの国境都市ペシャワールに戻り,ソビエト戦争から逃れた地元の人々とアフガン難民を治療するための診療所を設立した。

彼はその後,深刻な干ばつがこの地域に影響を与えている,アフガン東部のナンガルハールに診療所を開設した。 彼の患者は栄養不良に苦しんでいるだけでなく,きれいな水の供給源の不足のため,下痢も患っていた。

地元の言語であるパシュト語も学んだ中村医師は,最初は何百もの井戸をきれいな水のために掘って状況を改善しようとしたが,すぐにそれが答えではないことに気付いた。
「飢饉,干ばつ(starvation,drought) - 医学はこれらの問題を解決することはできない。」と中村医師は 最後の1つであると思えるNHKへのインタビューで語った。 「医学の狭い分野を超えて,人々が十分な食料と水を確保できるように努力する必要があることに気づいた。」

そこで彼は,乾燥した地域を灌漑するために,既存の水源から運河を建設することにした。 最初の運河を掘るための機器を調達する困難に直面した後,彼は日本の故郷で200年以上前に建設されたものからインスピレーションを得た。
当時、中村医師は次のように述べている。「ダンプトラックなどはなかった。 村人たちは皆,手作業で建設するために協力しなければならなかった。だから,今日の人々が同じことをできない理由はなかった。 この考えは私にインスピレーションを与えた。 試してみると,それができた。」

6年以上にわたり,干ばつに苦しむ村から引き抜かれた労働力で,中村医師は長さ約15マイルの主要な運河の建設を手伝った。

同僚の一人,伊藤和也を過激派に誘拐され殺害された後も,彼は仕事を続けた。彼のチームが建設した小さな運河は4つの地区に広がっていた。

全体として,ナンガルハールのアフガニスタン当局は,彼は殺害されるまでに,運河で ほぼ百万人の生活を改善し,以前は乾燥した土地のほぼ6万エーカーを灌漑したと述べた。

「彼はアフガニスタンを愛していた」と,ケワ地区の地元の長老,マレク・ザホール(Malek Zahoor)は言った。「彼は ここの人々を助けるため,ふるさとを離れて ここにいた。」

(転載了)
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死して 世界に名を知らしむより 生きて なお ・・・

無念さは如何ばかりか・・・ 。

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