かつての日本の名車 12台
‘art design Asia’ のサイトに
“12 incredible cars that define Japanese car design”
「日本の自動車デザインを定義する12台の素晴らしい車」
のタイトル記事がありました。
下記,拙訳・転載します。
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1902年のささやかな始まりから,日本の自動車デザインは自動車デザインの可能性の限界を押し広げてきた。クラシックなクーペから風変わりな三輪車まで,長年にわたる人気のデザインをいくつか紹介しよう。
Overview/概説
大手自動車メーカー10社のうち6社が日本企業であり,日本は世界第3位の自動車生産国である。なぜこれほど成功しているのだろうか? 長年にわたって,日本はよく作られた(well built),信頼性の高いハイテク車両を生産するという評判を得てきた。120年にわたる自動車の歴史の中で,日本はロボット製造プラントからハイブリッド・エンジンに至るまで,新技術開発の最前線に立ってきた。
ただし,ここではテクノロジーを脇に置き,日本の自動車デザインの美学(aesthetics)に焦点を当てる。見た目,構造,デザインが記憶に残る車である。
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The Cars
Toyota 2000GT
リストのトップは,美しい(stunning)「トヨタ 2000GT」 である。河野二郎と 野崎喩によってデザインされたこの車はまさに(nothing short of)象徴的だ。
「トヨタ 2000GT」の価値は?
幸運にも販売またはオークションで見つけられたら,高額な値段が付くことが予想される。そのうちの 1台は最近,最低価格が 50万ポンド以上に設定されてオークションに出品された。生産台数が限られているため,この車は希少で人気がある。
「トヨタ 2000GT」は何台 製造されたか?
工場は 1967年から 1970年までの3年間の生産期間でわずか 351台の車を生産した。これら 351台のうち,輸出市場向けに左ハンドルで生産されたのはほんのわずかだった。
「トヨタ 2000GT」の速度は?
「トヨタ 2000GT」の最高速度は時速 137マイルで,0 – 60mphに 8.4秒で到達する。
「トヨタ 2000GT」 と ジェームズ・ボンド
2000GT は,主に日本で撮影された 1967年のジェームズ・ボンド映画「007は二度死ぬ(You Only Live Twice)」に登場した。この映画のために,2台の 限定(one-off)トップレス・モデルが特別に作られ,ダニエル・クレイグはこのトヨタが史上最も好きなボンド・カーだと考えている。
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Prince R380/プリンス R380
1964年の第2回日本グランプリで 「ポルシェ904」に敗れたプリンス自動車は,日本初の本格的なレース・カーの製造に着手した。
ヘッド・エンジニアの桜井真一郎が率いるプリンス・チームは,従来のオープン型ブラバム・シャシー(Brabham chassis)に搭載するカスタム・ボディの設計を開始した。 低くて空気力学的に優れたアルミニウム・ボディの R380 は,これまで日本で生産されていた如何なる車とも異なった。
Racing Prince R380
1965年のグランプリが中止になったため,プリンスはデビュー・レースを待たなければならなかった。 1966年の第3回日本グランプリ。プリンスは数台のマシンを出場させ,砂子義一が1位、大石秀夫が2位となりポルシェを破った。
1966年のプリンス自動車と日産自動車の合併後,R380は 日産R380-IIに改良された。日産はさらに車の開発を続け,最終的に Nissan R382 を設計した。
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Mazda Cosmo/マツダ・コスモ
小林平次と 山本健一が設計し,マツダはシリーズ1を343台とシリーズ2を833台のみ生産した。マツダがコスモという名前を使用したのは,宇宙と宇宙開発競争に対する国際的な関心からである。
これは,製造された最初のロータリー・エンジン車の 1つだった。
「マツダ・コスモL10A 又は L10B」はいくらするか?
状態の良い車には 250,000ドルから 350,000ドルの値段が予想される。これらの車は日本国外で見つけるのが非常に難しく,販売当時は日本人にとってさえ高価だった。
マツダ・コスモは米国で販売されたか?
この車は日本でのみ販売された。 ジェイ・レノ(Jay Leno)が説明するように,新しいエンジン技術の使用,珍しいスタイル,そして戦後から比較的時間が経っていなかったために,この車を米国で販売するのは非常に困難だった。
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Fuji Cabin/フジ・キャビン
1955年の東京モーター・ショーで紹介された「フジ・キャビン」は,富士自動車によって製造された小型の3輪自動車である。
この車には前輪が2つ,後輪が1つあり,モノコックはグラスファイバーで作られていた。 「フジ・キャビン」は2つの座席と 1つの前面ヘッドライトを備えていた。
1957年から 1958年の 1年間にわずか 85台が製造された。車の最高速度は時速37マイルだった。
「フジ・キャビン」は いくらで売られるか?
状態の良い車には15万ドルが予想される。
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Datsun (Fairlady) 1500-2000 Roadster/ダットサン(フェアレディ)1500-2000 ロードスター
ダットサンの2人乗りロードスターは,1962年に「フェアレディ1500 SP310」として日本で発売された。 ロードスターは,1965年に 「1600 (SP311)」,1967年に「145PS 2000 (SR311)」 に発展し,性能が向上した。ダットサンは本格的なスポーツカーの生産を開始し,国際的に,特に米国で非常に人気のあるものになった。
ダットサンのロードスターは,日本が真剣に取り組んだ最初のスポーツカーであり,それはモーター・スポーツでの成功のおかげである部分もある。
ダットサンは MGB よりも安価で,同等のパフォーマンスをはるかに優れた価格で提供した。ラジオ,ヒーター,シート・ベルトなどが標準装備されていたが,ヨーロッパの自動車メーカーはこれらをオプションとして追加料金を請求していた。購入者は車の価値と信頼性を認識し,売上は急速に伸びた。
「ダットサン(フェアレディ)1500- 2000」 はいくらで売られるか?
良好な状態の車には 25,000 ドルから 35,000ドル以上の支払いが予想される。より安くて状態が悪いものを見つけることは可能だが,十分なレストア(restoration)が必要な車でも 10,000ドルもの価格がかかる場合がある。
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1998 Nissan R390
トニー・サウスゲート(Tony Southgate),イアン・カラム(Ian Callum) および Nismoのの萩原豊によって設計されたこの 90年代後半の車は,驚異的な 550 馬力、0-60 mph加速 3.9 秒,最高速度 200 マイル以上を誇る。
この日本車は,おそらく世間で言われている以上に評価されるべきだろう。実際,「日産 R390」 は依然として工場生産された日本車の中で最速である。 厚木工場で製造されたこの車はレース,特に GTルールに基づくル・マン 24時間レース用であったため,この車の公道バージョンも製造する必要があった。
「R390」は 10台のみ製造された。そのうち 8台はトラック用,2台は道路用に作られているので,一度でも目にすることができれば幸運である。
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1978 Dome Zero/ 1978 童夢-零
「童夢-零」 のデザインと歴史
デザイナーの林みのるは,卓越したスタイルを備えたロード・ゴーイング・スポーツカーの生産を目指して 1975年に童夢を設立した。3年後,「童夢-零」は 1978年のジュネーブ・オート・ショーで世界に公開された。P2 を含むいくつかの異なるバージョンやデザインにもかかわらず,「童夢-零」は当局から量産化の承認を得ることができなかった。 この車が市場に出されていれば,3万ドルから6万ドルの間で販売されただろうと考えられている。
「童夢-零」はレースに出たことがあるか?
当局に対する不満があり,この自動車メーカーはモーター・スポーツに目を向け,「Zero RL」 が開発された。 この新しい車は,1979年に英国のシルバーストンで初めてレースに出場した。予選3位だったこの車は最終的に12位でフィニッシュした。 1979年のル・マン24時間レースには 2台の 「Zero RL」 が出場したが,2台とも完走できなかった。これらの車は1980年と1982年に若干の改良を加えて再びレースに出場したが,やはり完走することはできなかった。 これで 「童夢-零」は事実上 終わった。
「童夢-零」は,もう レースや運転はされてないかもしれないが,E ドライバーの手に生き続け,人気のドライビング・ゲーム,グラン・ツーリスモのいくつかのバージョンでフィーチャーされ,ファンのお気に入りであり続けている。
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1970s Toyota Celica Liftback and Export models/1970年代 トヨタ・セリカ リフトバック,および 輸出モデル
1970年の東京モーター・ショーで発表された「セリカ」は,1964年製 米国のフォード・マスタングに対するトヨタの反応だった。
スタイリングはいくつかの変更を経たが,1978年に第2世代のセリカが登場し,よりハードなラインと 80年代の雰囲気を感じさせるデザインになるまで一貫していた。
The Liftback
トヨタ・リフトバックは,明らかなスタイリングの類似性から,マスタング・セリカまたは日本のマスタングと呼ばれていた。
初期のモデルはマスタングの初期バージョンに基づいていたのに対し,これらの車はマッスル・カーの 1968年フォード・マスタングからファストバックの外観を取り入れている。
Export Versions (輸出バージョン)
1973年から70年代の終わりまで,トヨタはさまざまな国際市場向けにいくつかのバリエーションを開発した。 マッスル・カーのスタイルはそのままだが,バンパー,バッジ,グリルが微妙に変更された。 この車は,そのスタイリングだけでなく,高品質の車を製造するというトヨタの評判のおかげで大成功を収めた。
ヴィンテッジ 「トヨタ・セリカ」はいくらするか?
状態の良い 70年代のリフトバックまたは輸出モデルには 25,000ドル以上の価格が予想される。
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Honda S600 and S800
The S600
「S800」の前身である「S600」は,その非の打ちどころのない(impeccable)スタイルで有名である。 1964年に初めて発売されたこの美しい小さな日本車は,クーペまたはロードスターとして提供された最初の車だった。
「S600」は当初,右ハンドル車のみとして提供されまたが,すぐに輸出市場にアピールするために左ハンドルと右ハンドルの両方が利用できるようになった。
標準モデルの「S600」とは別に,ホンダは「SM600」と呼ばれる特別バージョンも導入した。これは特別なボディカラー,ラジオとスピーカー,ヒーター,シガー・ライター,「SM600」でのみ利用可能なバッジ(badge)を備えている。
需要の最盛期には,ホンダは年間8000台以上の車を製造していた。 これは,新しく改良された「S800」 を導入したことで減少した。
2021年に「ホンダ S600」は いくらか?
いつものように,価格は大幅に異なり,市場で変動する可能性がある。 私たちは,1965年式の 「S600」 クーペを新品の状態で約25,000ポンドで見つけた。この記事の執筆時点では 「SM600」は見つからなかった。
The S800
私たちのリストに最初に載ったホンダは,1959年に設立された。スポーティな 「S800」は 1965年の東京モーター・ショーでデビューし,非常に人気のあった 「S600」に代わって登場した。前モデル車と同様に,「S800」はクーペまたはロードスターとしても利用可能だった。何がこの車をそれほど特別にしたのだろうか? そう,スタイルがいくつか変更され,パフォーマンスが向上した。この車は,非常に人気のあるオースティン・ヒーレー・スプライト(Austin Healey Sprite)やトライアンフ・スピットファイア(Triumph Spitfire)と同等に作られた。
ホンダは1968年に新しいバージョンのホンダ「S800m」を米国市場に投入することを目指していたが,排ガス規制の変更によりこれは失敗に終わり,米国市場がないためホンダは「S800」から手を引いた(pulled the plug)。
ロードスターとクーペの違いは何か?
ロードスターは通常,オープン・ルーフを備えたスポーツカーである。 オープン 2シーターまたは 2シーター・ツアラーと呼ばれることもある。
クーペ(coupe 又は coupé)は,傾斜または切り取られた後部のルーフラインと 2ドアだけを備えた乗用車またはスポーツ・カーである。クーペ(coupé)とはフランス語で「切る(cut)」という意味で,2人乗りの馬車を表すために使用された。
2021年に 「ホンダ S800」はいくらするか?
英国で今年販売されている状態の良い車が,車と売り手によって 17,000ポンドから 45,000ポンドで販売されていることがわかった。
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Nissan Silvia CSP311/日産シルビア CSP311
これも1964年の東京モーター・ショーでデビューしたクルマ。当時は「ダットサン・クーペ 1500」として知られていたが,「ダットサン」ブランドを所有する日産が名前を変更することを決定したため,1965年までに「日産シルビア CSP311」として知られるようになった。
この車は,以前BMWの車をデザインしたドイツの工業デザイナー,アルブレヒト・ゲルツ(Albrecht Goertz)の指導を受けて,日産の社内デザイナーである木村一男と吉田文雄によってデザインされた。
ほとんどが半手作り(semi handmade)であったため,製造された車はほとんどなく,1968年に生産が終了するまでに製造された車は 600台未満だった。この車は最初のスポーツ・クーペの 1台として認識され,日本では高速道路のパトカーとして使用された。
「日産シルビア CSP311」を買うことは可能か?
生産量が限られているため,見つかることは非常にまれである。輸出されたのはほんのわずかで,ほとんどが日本に残っている。
もし売りに出されたら,10万ポンド以上の値段が付くことが予想される。
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Nissan Skyline GT-R 1973/日産スカイライン GT-R 1973
60年代から 70年代の日本車は,特に米国車や米国のマッスル・カーから多くのデザインのヒントを得た。「日産スカイライン GT-R 1973」 も例外ではない。
日産の4代目スカイラインで,「ケンとメリーのスカイライン」の広告コピーで人気を博した。日産は国民に人気の高い車だったが,オイル・ショックや排ガス規制の強化により,生産台数は200台未満にとどまった。
車自体はクーペとして1年間のみ提供された。美しい希少なクラシックである。
「日産スカイライン GT-R 1973」オークションは
生産台数が非常に少ないため,オークションで見かけることはほとんどない。オリジナルに近い状態で43,460km走行した最後の1台は,日本では35万ポンド以上の値がついた。
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Nissan 240Z-G Fairlady/日産 240Z-G フェアレディ
最後になるが,間違いなく重要なのは,美しい「日産 240Z G フェアレディ」である。これまでに作られた最も美しい車の1台である。
「ダットサン 240ZG」としても知られるこの車は,1971年10月下旬に日本で発売され,グループ 4 レース用に 240Z を公認されるために作られた。
日産は生産を簡素化するために,車の色をわずか 3色で提供した。 グランプリ・レッド,グランプリ・ホワイト,グランプリ・マルーン。
接尾辞の「G」は「Grande」を表し,これが望んでいたグランド・ツーリング・カーへの敬意を表している。
「スポーツ・カー・インターナショナル」はこの車を非常に気に入ったため,1970年代の最高のスポーツ・カーのリストで 2位に選んだ。
「日産 240Z-G フェアレディ」は売られるか?
この車はオークションやオンラインで見つけることができる。価格は利用可能な車の状態と同様に大きく異なる。
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上記の選択は表面をなぞっただけである。日本は80年代から90年代,そしてそれ以降も多くの素晴らしい車を作っている。
(転載了)
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これらの車の中で 生産台数が少なかった「日産シルビア」を大学生だった1970年頃,福岡の繁華街で見かけた時,興奮した記憶があります。後にも先にも 「シルビア」の実物を見たのはこの時だけでした。
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