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2024年1月23日 (火)

映画「遠い夜明け」の黒人解放活動家 ビコの死に関して-

NHK BSで 映画『遠い夜明け』(Cry Freedom1987),監督:リチャード・アッテンボロー(Richard Samuel Attenborough19232014),出演-デンゼル・ワシントン(Denzel Washington,  1954~ ),ケヴィン・クライン(Kevin Kline, 1947~ )ー を観ました。

映画はアパルトヘイト政権下の南アフリカ共和国で殺害された著名な黒人解放活動家 スティーヴ・ビコ(デンゼル・ワシントン)と南アフリカ共和国の有力紙デイリー・ディスパッチ紙の白人記者ドナルド・ウッズ(ケヴィン・クライン)との交友をベースに,警察に拘留中に死んだビコに関する調査結果の本を イギリスで発行するため ウッズが 南アフリカから逃亡する過程がクライマックスとして描かれます。

映画は ウッズが書いた伝記BIKOを元に製作され,事実に基づいています。

スティーブ・ビコ(Steve Biko)については Wikipedia(英文)に詳細に示されています。
この中から 彼の死に関する “Death: 1977” の項を下記,拙訳・転載します。
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Death: 1977

Arrest and death/逮捕と死

1977年,ビコは禁止令を破ってケープタウンへ旅行し,統一運動の指導者ネビル・アレクサンダー(Neville Alexander)と会い,ジョニー・イッセル(Johnny Issel)のようなマルクス主義者が多数を占めるBCMBlack Consciousness Movement)西ケープ支部で増大する反対意見に対処してもらおうとした。ビコは 817日に友人のピーター・ジョーンズ(Peter Jones)とともに車で市内へ向かった後,ビコとジョーンズはキング・ウィリアムズ・タウン(King William's Town)に向かって車で戻ったが,818日グラハムズタウン(Grahamstown)近くの警察のバリケードで止められた。 ビコはキング・ウィリアムズ・タウンへの立ち入りを制限する命令に違反したとして逮捕された。治安当局はビコのケープタウンへの旅行を察知しており,彼を捕まえるために道路封鎖が設置されたという根拠のない主張がなされた。 ジョーンズもバリケードで逮捕された。その後,彼は裁判なしで533日間拘留され,その間何度も尋問された。

治安当局(security services)はビコをポート・エリザベスのウォルマー警察署に連行し,そこで足かせをはめられた状態で裸で独房に拘束された。96日,彼はウォルマーからポート・エリザベス中心部のサンラム・ビルにある治安警察本部の619号室に移送され,そこで22時間の尋問を受け,手錠と足かせを掛けられ,鉄格子に鎖でつながれた。

何が起こったのか正確には解明されて(ascertained)いないが,取り調べ(interrogation)中に彼は10人の治安警察官のうち少なくとも1人から激しく殴られた。 彼は脳に3つの損傷(lesions)を負い,96日に大量の脳出血(brain haemorrhage)を引き起こした。 この事件の後,ビコを捕らえた者たちは,彼を立ったままにし,壁に足かせを付けたままにすることを強制した。 後に警察は,ビコがそのうちの一人を椅子で攻撃し,警察が取り押さえて手錠と脚チェーンを掛けさせたと発表した。

ビコはアイヴァー・ラング(Ivor Lang)医師の診察を受け,医師はビコに怪我の痕跡はなかったと述べた。その後の研究では,ビコの怪我は明らかだったに違いないと示唆されている。 その後,他の2人の医師の診察を受けたが,検査の結果,ビコの脊髄液に血球が混入していたことが判明し,プレトリアの刑務所病院に搬送されるべきであることに同意した。 911日,警察は彼を裸で手枷をさせた状態でランド・ローバーの後部座席に乗せ,病院まで740マイル(1,190キロ)を搬送した。

そこでビコは1977912日に独房で孤独に亡くなった。検視によれば,「広範な脳損傷(extensive brain injury)」により「血管内血液凝固,急性腎不全,尿毒症が起こるほどの血液循環の集中化(centralisation)」が引き起こされていたという。」。 彼は,南アフリカの刑務所で12ヶ月以内に死亡した21人目であり,政府が1963年に裁判なしで投獄を認める法律を導入して以来,取り調べ中に死亡した46人目の政治的拘留者となった。

Response and investigation/対応と調査

ビコの死のニュースはすぐに世界中に広がり,アパルトヘイト制度の悪用(abuses)を象徴するものとなった。 彼の死は,彼が生前に得た以上に世界的な注目を集めた。 抗議集会がいくつかの都市で開催された。 多くの人は治安当局がこれほど著名な反体制指導者を殺害することにショックを受けた。1977925日にキング・ウィリアムズ・タウンのビクトリア・スタジアムで行われたビコの英国国教会の葬儀(Anglican funeral service)は5時間かかり,約2万人が参列した。大多数は黒人だったが,ラッセルやウッズなどのビコの友人や,ヘレン・スズマン,アレックス・ボレーン,ザック・デ・ビアなどの著名な進歩的人物を含む数百人の白人も出席した。 13ヶ国の外交官が出席し,デズモンド・ツツ司教率いる英国国教会の代表団も出席した。

この行事は後に「国内初の集団政治葬儀」と評された。 ビコの棺は,握りしめた黒い拳(clenched black fist),アフリカ大陸,そして「一つのアザニア(Azania),一つの国」という声明のモチーフで装飾されていた;アザニアは、多くの活動家がアパルトヘイト後の南アフリカに採用することを望んでいた名前だった。 ビコはギンズバーグの墓地に埋葬された。 BCM に所属する 2 人のアーティスト,ディコベ・ベン・マーティンスとロビン・ホームズは,イベントを記念する T シャツを制作した; このデザインは翌年禁止された。 マーティンズはまた,1980 年代を通じて人気を博した葬儀ポスターの伝統の最初となる,葬儀の記念ポスターも作成した。

ビコの死について公の場で発言した同国の警察大臣ジミー・クルーガーは当初,ハンガー・ストライキの結果だったとほのめかしたが,後にこの発言を否定した。 ウッズを含むビコの友人らは,ビコが刑務所内では決して自殺しないと言っていたとして,彼の説明に異議を唱えた。 警察大臣は公の場でビコが暴力を計画していたと述べ,この主張は政府寄りの報道機関でも繰り返し行われた。 南アフリカの司法長官は当初,ビコの死に関して誰も訴追されないと述べた。 葬儀の2週間後,政府は資産を差し押さえられたBCPを含むすべての黒人意識団体(Black Consciousness organisations)を禁止した。

国内外からの圧力により公開審問(public inquest)の開催が求められ,政府はこれに同意した。 この裁判は 1977 11 月にプレトリアのオールド・シナゴーグ裁判所で始まり,3 週間続いた。 検死審問の運営と提出された証拠の質の両方が広範な批判にさらされた。 法の下での公民権弁護士委員会(the Lawyers' Committee for Civil Rights Under Law)のオブザーバーは,宣誓供述書(affidavit)の陳述は「時には冗長(redundant)で,時には一貫性がなく(inconsistent),しばしば曖昧である(ambiguous)」と述べた; デビッド・ネイプリーは,この事件に対する警察の捜査は「極めておざなり(perfunctory)」だったと述べた。 治安部隊(security forces)は,ビコが乱暴な行動をとり,乱闘(scuffle)の際に独房の壁に頭をぶつけて負傷したと主張した。 裁判長(presiding magistrate)は治安部隊の説明を受け入れ,関係者の訴追を拒否した。

この判決(verdict)は,多くの国際メディアやジミー・カーター大統領率いる米国政府によって懐疑的(scepticism)に扱われた。197822日,東ケープ州の司法長官は検死審問で与えられた証拠に基づいて,警官らを訴追しないと述べた。 検視の後,ビコの家族は州を相手に民事訴訟を起こした; 弁護士のアドバイスを受けて,彼らは7月に65000ランド(Rand)(78000米ドル)の和解金で合意した。検視の直後、南アフリカ医科歯科評議会(the South African Medical and Dental Council)はビコの治療を委託されていた医療専門家に対する訴訟を開始した; 8年後,医師のうち2名が不適切な行為で有罪判決を受けた。 政府に雇用されている医師たちがビコの怪我の診断や治療を怠ったことは,抑圧的な国家が医療従事者の決定に影響を与えている例として頻繁に引用されており,ビコの死は医師が国家のニーズよりも先に患者のニーズに応える必要があることを証明した。

1994 年にアパルトヘイトが廃止され多数派政府が樹立された後、過去の人権侵害を調査するために真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission)が設立された。 委員会はビコの死を調査する計画を立てたが、彼の家族は,委員会が責任者に恩赦を与える可能性があり,それによって家族の正義と救済を受ける権利が妨げられる可能性があるという理由で,これに反対する請願を行った。1996年,憲法裁判所は家族に不利な判決を下し,調査の続行を許可した。

5人の警察官(ハロルド・スナイマン,ギデオン・ニューウォート,ルーベン・マルクス,ダーンジェ・シーベルト,ヨハン・ベネケ)が委員会に出廷し,ビコの死にまつわる出来事についての情報提供と引き換えに恩赦を要求した。 199812月,委員会は5人への恩赦を拒否した。これは,彼らの証言が矛盾していて真実ではないとみなされたためであり,ビコの殺害には明確な政治的動機はなく,「嫌悪感や悪意(ill-will or spite)」によって動機付けられたように見えたからである。200310月,南アフリカ法務省は,公訴時効が経過しており,訴追を確保するための証拠が不十分であるため,5人の警察官は訴追されないと発表した。

(転載了)
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ビコを診察した医師は罰せられましたが,拘置所で 直接 手を下した警察官は罰せられなかったようです。

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