マツダの初代ロードスターのデザイン担当・俣野氏 逝去で 米国のサイトに特集記事
2025年9月20日,マツダのスポーツカー 「ユーノス・ロードスター」 や 「RX-7(3代目,FD3S型)」などのエクステリア・デザインを手がけた,カー・デザイナーの俣野努氏が 77歳で亡くなったと報じられました。
米国の ライフ・スタイル誌 ‘GEAR PATROL’ の電子版が Sept.27,2025付けで
“Mazda’s Most Influential Model Wouldn’t Exist Without This Man”
「マツダの最も影響力のあるモデルは,この男なしには存在しなかっただろう」
の見出し記事で 氏の経歴等を特集していました。
下記,拙訳・転載します。
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We reflect on the history of the “father of the Miata,” who recently passed at the age of 76.
最近 76歳でこの世を去った「‘Miata’(ロードスター)の父」の軌跡を振り返る。
マツダが初のロードスター ‘Miata’ を発表したのは,今から36年前のシカゴ・オート・ショーだった。1989年2月,寒く風が吹き荒れる中,広島に本社を置くこの自動車メーカーは,後にマツダを代表するモデルとなる ‘Miata’ を発表した(pull the sheet off)。
もちろん,当時は誰もそれを知らなかった。しかし,‘Miata’ はその軽量構造(lightweight construction),ピュアなドライビング・エクスペリエンス,揺るぎない信頼性(stout reliability),そして手頃な価格(affordability)で,世界を変える存在となった。そして,自動車愛好家(motoring enthusiasts),サーキット走行愛好家(track-day lovers),そしてオープン・トップ・ファンにとって,まさに憧れの存在(beacon)となった。
そして,これらはすべて,俣野努(通称トム(Tom))の協力なしには実現しなかっただろう。俣野は先日76歳で亡くなった。しかし,俗に「ミアータの父(father of the Miata)」と呼ばれる彼は,マツダにとって間違いなく(arguably)最大の功績を残した。
俣野の成功に敬意を表し,‘Miata’ の歴史,彼がどのようにして今日まで生き続ける車を私たちにもたらしたのかを振り返る。この車は,史上最も売れている2シーター・コンバーチブル・スポーツカー(two-seat convertible sports car)である。
Matano didn’t originally start at Mazda
俣野はもともとマツダで働いていたわけではなかった
第二次世界大戦終結直後,長崎県で生まれた俣野は,幼少期のほとんどをふるさとで過ごした。後に東京の成蹊大学で工学の学位を取得した。
しかし,国内で仕事を見つける代わりに,1970年代半ばに米国へ移住した(immigrated)。米国でさらに学びを深め,最終的にゼネラル・モーターズに就職した(landed a job with)。
その後,GMのオーストラリア部門,特にホールデン・デザイン(Holden Design)に勤務するため,世界を渡った。しかし,1977年にはGMを離れ,ドイツのミュンヘンに移り,BMWのデザイン部門に加わった。
俣野が再び母国と関わるようになったのは1983年のことだった。彼は米国に戻り,マツダ・ノースアメリカ・オペレーションズ(MNAO:Mazda North America Operations)のチーフ・デザイナーに就任した。
そこで彼は昇進を重ね(climbed the corporate ladder),デザイン担当副社長,そして後にエグゼクティブ・デザイナー兼ディレクターに就任した。その過程で,当時 ‘Mazda USA’ の主任製品プランナーの一人であったボブ・ホールと共同で,初代 ‘“NA” Miata’ のデザインを監督した。
The Miata arrived at a time when many thought the convertible was dying
ミアータが登場したのは,多くの人がコンバーチブルの衰退を予感していた時代だった
‘Miata’ がデビューした(took its first bow)時,それは一見衰退しつつある市場への参入だった。小型ロードスターは,ファミリー向けで燃費の良い車に取って代わられ,衰退しつつあった。その対極には,先進技術を駆使した高級セダンがあった。
MGB,Triumph Spitfire,TR7,Alfa Romeo Spider, Fiat 124 Spider やX1/9といった典型的なモデルは姿を消した。そして,オープン・トップの車は高価な(pricy)ミッドサイズ・モデルか,プレミアム市場に限定されてしまったかのようだった。
さらに,1970年代から80年代にかけて,安全規制により米国がコンバーチブルを全面的に(outright)禁止するのではないかという懸念が業界に根強くあった。しかし,マツダは逆境(the odds)をものともしなかった(defied)。
市場の先行きが不透明だったにもかかわらず,すべては70年代後半に始まった。当時,ホール(Hall)は‘MotorTrend’誌の著名なジャーナリストだった。彼はマツダの当時の研究開発責任者,山本健一と面会した。
広島本社での会議中,自称ライトウェイト・スポーツ・ロードスター愛好家のホールは,マツダのロードスター構想について山本に意見を述べた(opined)。彼は,ヨーロッパの名車が持つ最高の特性と,日本のエンジニアリングの精密さと信頼性を融合させた車を夢見ていた。
当初,山本はその考えに納得していなかった。おそらく ‘Spitfire’ のハンドルを握り,箱根の曲がりくねった(windy)道を走らせるまでは。
The first Miata went through several design pitches, Matano oversaw them all
最初の「ミアータ」は いくつかのデザイン案を経て,俣野が全てを監督した
当初,軽量スポーツ・ロードスターのコンセプトは3種のデザインを経て,俣野が最終案(final rendition)を決定した。提案(pitches)の一つは,トヨタMR2に似たミッドシップ・エンジン・レイアウト(mid-engine arrangement)だった。
しかし,更なる検討(deliberation)を重ねた結果,俣野と彼のチームはフロント・エンジン・レイアウトにこだわった。俣野が率いるカリフォルニアのマツダのデザイン・チームは,車全体の形状とディテールをさらに磨き上げた。日本のエンジニアリング・チームは,エンジン,シャシー,サスペンションの開発に取り組んだ。
俣野が率いる同じデザイン・チームには,マーク・ジョーダン(Mark Jordan),ウー・ホアン・チン(Wu-huang Chin),ノーマン・ギャレット(Norman Garrett),そして林浩一といった著名なデザイナーも参加していた。そして1989年,最終製品が完成した。
Matano also led the design for the most iconic RX-7
俣野は,最も象徴的なRX-7のデザインも指揮した
俣野は “father of the Miata” として知られているかもしれない。しかし,マツダのロータリー・スポーツカーの最も象徴的な世代である,第3世代‘FD RX-7’の生みの親としても高く評価されている。
‘RX-7’は1978年の発売以来,マツダのフラッグシップ・スポーツカーだったが,真に世界的な注目を集めたのはFD世代になってからだった。ハリウッドの名作カー映画 『ワイルド・スピード(The Fast and the Furious)』では,ヴィン・ディーゼル演じる主人公 ドミニク・トレットが運転するスター・カーとして登場した。
日本のアンダーグラウンド・レース・シーンの人気が爆発的に高まるにつれ,‘FD RX-7’も人気を博した。
He will be sorely missed throughout the Miata community
ミアータ・コミュニティ全体で彼の不在は惜しまれるだろう
俣野さん(Matano-san)は ‘father of the Miata’ として知られていただけではない。2002年にマツダUSAを退職した後も,マツダ・コミュニティの重要な存在であり続けた。彼はショーやイベントに定期的に出席し,しばしば特注の車(bespoke creations):‘NA Miata’ のハードトップ・クーペ・コンセプトで登場していた。
また,‘Miata’ のファンやオーナーと交流を深め,温かく誠実で謙虚な人柄で評判を得ていた。そして,彼は自身のインスタグラムに,その経験を ‘miatapapa’ というハンドルネームで頻繁に投稿していた。
彼は巨大なコミュニティとファンベースを残して去っていったが,彼の究極の創造物(ultimate creation)はマツダの偉大な遺産として生き続けるだろう。
(転載了)
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ロードスターのチーフ・デザイナーが マツダUSAに所属し,デザインが米国で行われたことを 初めて知りました。
いくつかの サイトで 俣野氏の生年月日は 1947年10月7日とあるので 享年 77歳で,‘GEAR PATROL’ 記事内の 76歳は 誤りのようです。
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