J.D.サリンジャー(‘Jerome David Salinger’,1919/1/1 - 2010/1/27 )が 亡くなって 11年経ちました。
ふと,思いついて,亡くなった2日後に ワシントン・ポストに掲載された記事を探して 読んでみました。
下記,拙訳・転載します。
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‘Washington Post’,Friday, January 29, 2010
“J.D. Salinger, 91; 'Catcher in the Rye' author became famous recluse”
「J・D・サリンジャー,91歳。『ライ麦畑でつかまえて』の作者は有名な隠者になった」
By Bart Barnes
J.D.サリンジャー(91), 1951年,青春期の恐怖(adolescent angst)と若々しい反逆(rebellion)の不朽の賛歌(enduring anthem)となり,20世紀アメリカ文学の古典になった小説「ライ麦畑でつかまえて」を書いた,有名な作家,そして,謎の世捨て人(enigmatic recluse)が,ニューハンプシャー州コーニッシュの自宅で水曜日(2010年1月27日)に死んだ。
サリンジャー氏の作品代理人が出した声明の中で,著者の息子はAP通信に死亡を確認した。死因は報告されていないが,声明によると,サリンジャー氏は昨年腰を骨折したという。
第二次世界大戦後の数世代にもわたる男女にとって,「ライ麦畑でつかまえて」は,敏感な若者のモノの見方(mind-set)についての,一人称の,率直な(tell-it-like-it-is)物語だった:皮肉家(cynical)だが空想家(romantic); 偽善(hypocrisy),社会的慣習(social convention),順応(conformity)への軽蔑(disdainful);自意識と自分の肌への不快感;混乱して哀れ(pathetic)だが憎めない(loveable)。
この小説は,ホールデン・コールフィールド(Holden Caulfield)の冒険と災難(misadventures)についての物語であり,幻滅した(disillusioned) 16歳の彼は,自分が寄宿学校(boarding school)のペンシー・プレップ(Pencey Prep)から退学される(expelled)ことを知り,逃げることを決意する。ニューヨーク市での 3 日間,彼はタクシーの運転手,修道女(nuns),エレベーターの男,シアトル出身の 3 人の少女,売春婦,元教師と奇妙な出会いを繰り返す。彼の目には,世界は「インチキ(phonies)」に管理され支配されており,彼は愛,セックス,そして最終的には自分自身と折り合いをつけるために,限られた成功にもがく。 妹フィービー(Phoebe)との出会いで,彼は愛情と救い(salvation)を見出す。
小説の出版から半世紀以上にわたり,ホールデン・コールフィールドは,F・スコット・フィッツジェラルドのジェイ・ギャツビーやマーク・トウェインのハックルベリー・フィンなど,米国のフィクションの国民的英雄(folk hero)として,文学の伝説の仲間入りを果たした。
この本を読むことは,青年期(adolescents)の通過儀礼(rite of passage)とよく言われる。
「ライ麦畑でつかまえて」が登場して間もなく,サリンジャー氏はニューハンプシャーの田舎の丘に引きこもり,隠遁生活を送った(lived in seclusion)。彼はメディアや一般の人々を避け(shunned),彼の手紙の出版や引用を差し止めるために訴訟を起こした。彼は執筆を続けたが,1965 年に「ニューヨーカー」に短編小説が掲載されて以来,新しい著作は出版されていない。以前,「ニューヨーカー」誌は J.D. サリンジャーの短編小説を出版していたが,ほとんどの読者にとって,彼は「ライ麦畑でつかまえて」の著者としてしか知られていなかった。
コールフィールドは,その皮肉(wry)で苛烈な(caustic)観察は,賢く(outrageous),的を射ているように見える10 代のエブリマンになった。彼のスピーチは最初から,そのリズム(cadence)と言葉遣いによって,若々しい主人公(protagonist)に本物と時代を超越した雰囲気を与えた。
"If you really want to hear about it, the first thing you'll probably want to know is where I was born and what my lousy childhood was like, and how my parents were occupied and all before they had me, and all that David Copperfield kind of crap, but I don't feel like going into it, if you want to know the truth. In the first place, that stuff bores me, and in the second place, my parents would have about two hemorrhages apiece if I told anything pretty personal about them."
「もし,君が,この話をほんとに聞きたいんならだが,まず,僕がどこで生まれたとか,僕のチャチな幼年時代がどんな具合だったとか,僕が生まれる前に両親は何をやってたか,とかなんとか,そんな《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんない話から聞きたがるかもしれないけどさ,実をいうと僕は,そんなことはしゃべりたくないんだな。第一,そんなことは僕には退屈だし,第二に,僕の両親てのは,自分たちの身辺のことを話そうものなら,それぞれに二回ぐらいづつ脳溢血を起こしそうな人間なんだ。」(野崎孝 訳「ライ麦畑でつかまえて」,1970年11月25日発行 第18刷,初版 1964年,白水社-より,その書き出し。)
(下は 同じ白水社から 2003年に出版された 村上春樹さん訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の書き出しです。)
「こうして話を始めるとなると,君はまず最初に,僕がどこで生まれたかとか,どんなみっともない子ども時代を送ったかとか,僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか,その手のデイヴィッド・カッパフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。でもはっきり言ってね,その手の話をする気になれないんだよ。・・・ 」
社会学者のデイヴィッド・リースマン(David Riesman)は,ハーバード大学の,米国の特性と社会構造のコースでこの本を割り当てた。1961年のタイムズ誌のカバーストーリーで,「なぜなら,すべてのキャンパスには,ホールデンを模倣した孤独な群衆がいるから-12 月にレインコート(raincoats-in-December)を着る運命にある人たちは,コールフィールドの誇張を忠実にリハーサルする (「その年最後の試合だったし,年老いたペンシーが勝たなかったら,自殺か何かをするはずだった」)。
サリンジャー氏は他に長編小説を出版していない。 彼の短編小説には「ナイン・ストーリーズ」(1953 年)が含まれている: 2つの物語を組み合わせた「フラニーとズーイ(Franny and Zooey)」(1961年), そして「大工よ,屋根の梁を高く上げよ シーモア -序章- (Raise High the Roof Beam, Carpenters and Seymour: An Introduction)」(1963)は本質的に2つの中編小説(novellas)を組み合わせた。この作品の多くは,1965 年に掲載された彼の最後に出版された物語「ハプワース16,一九二四(Hapworth 16, 1924)」と同様に,最初は「ニューヨーカー誌」に掲載された。
1953 年,サリンジャー氏はコーンウォールに定住し,コネチカット川を見下ろす丘の上のコテージに住んでいた。彼は文学的な会議に出席せず,講義も行わず,ほとんど,いつも(invariably),すべての人間との接触を拒絶した(spurned)。 道路や公共の建物で誰かが彼に近づくと,彼は向きを変えて逃げた(fled)。彼はめったに写真に撮られず,出版社に「ライ麦畑でつかまえて」のカバー(dust jacket)から自分の写真を取り除くように指示した。彼の弁護士(attorneys)と代理人は,彼に関する質問には答えないように指示された。
1972 年と 1973 年の 9 ヶ月間,サリンジャー氏はジョイス・メイナードと浮気(affair)をして,ジョイス・メイナードは,イェール大学の 1 年生のときに彼と同居するために大学を中退した。
メイナードは,ニューヨーク・タイムズのサンデー・マガジンに「18 歳の人生を振り返る(An 18-Year-Old Looks Back on Life)」という記事を書き,サリンジャー氏の注意を惹いた。彼は彼女に手紙を書き,彼女がイェールを離れてニューハンプシャーで彼と一緒に暮らすまでの数週間,彼らは手紙を交換した。
25 年後,メイナードはその時の関係について回想録 "At Home in the World" に書いた。メイナードによると,彼は彼女に才能があり,彼女を愛していると言った。彼らは子供を持つことについて話した。しかし,彼女は彼をいらいらさせ始めた。セックスは満足のいくものではなかった。結局,彼は彼女を追っ払った(sent away)。
10 年前,イアン・ハミルトン(Ian Hamilton)は サリンジャー氏の伝記を書こうとした。その一部はサリンジャー氏が 1939 年から 1961 年の間に友人で編集者のホイット・バーネットや他の人に書いた未発表の手紙をもとにしていた。サリンジャー氏は,手紙の内容を引用や大規模な言い換え(paraphrase)から保護する連邦裁判所の判決を勝ち取った。 彼は,「J・D・サリンジャーを求めて (In Search of J.D. Salinger)」というタイトルですでに印刷された伝記の改訂を余儀なくされ,1988年に出版された。
訴訟手続きは,彼に付随するミステリーとロマンスのオーラを強めるだけであり,彼の著作に対する熱狂的なファン(aficionados)の欲求(appetites)をかき立てた。
2009 年,サリンジャー氏はニューヨークの連邦裁判所から,スウェーデンの小説「60年後:ライ麦畑をやってきて (Sixty Years Later: Coming Through the Rye)」(サブタイトル:「J・D・サリンジャーと彼の最も有名なキャラクターとの関係の無許可のフィクション試験」)の米国での出版を禁止する命令を勝ち取った。 この小説は,サリンジャー氏と76 歳のコールフィールドとの出会いを描いている。
裁判所は,この小説がサリンジャー氏の「ライ麦畑でつかまえて」に関する著作権を侵害する判示した。
「ライ麦畑でつかまえて」を除いて,サリンジャー氏の出版された物語は,主にグラス家のメンバー,ユダヤ人とアイルランド人のカップル,レス・グラスとベッシー・ギャラガーからなる神経質で風変わりな一族、退役寄席者とその7人の風変わりな人々によって占められていた。こどもラジオのクイズ番組「イッツ・ア・ワイズ・チャイルド」に出演した天才たちばかり。
「ナイン・ストーリーズ」に収録された「バナナフィッシュにうってつけの日(A Perfect Day for Bananafish)」を皮切りに,サリンジャー氏の6つの物語はグラス家の物語(saga)に関係していた。ほとんどのグラス物語の中心人物である長男のシーモア・グラスは,海岸にいる少女に「バナナフィッシュにとって完璧な日だ」と言い,1時間後,頭に銃を突きつけ,脳を吹き飛ばす。
「フラニーとズーイー」は,グラスの娘の末っ子と,テレビの俳優である彼女の兄のコンパニオン ストーリーである。
この家族の創設者であるジェローム・デビッド・サリンジャーは,1919 年 1 月 1 日、ユダヤ人のチーズ輸入業者とスコットランド系アイルランド人の母親の息子としてニューヨークで生まれた。1934年,彼の父親は,ペンシルベニア州の寄宿学校である,ペンシー・プレップのモデルとなったと言われているバレー・フォージ士官学校に彼を入学させた。
1936 年に卒業した後,彼は家業の経営に慣れるために父親に付き添ってヨーロッパに行った。ヨーロッパの政治情勢が悪化し,戦争が差し迫ったように見えると,彼は米国に戻り、1938年秋にペンシルベニア州のアーサイナス大学に入学した。彼は 1 学期後に退学し,大学に興味がないと宣言した。
彼はもう一度大学に挑戦し,コロンビア大学で短編小説の執筆のクラスを受講した。このクラスは,若いサリンジャー氏に強い印象を与えたバーネット氏によって教えられた。サリンジャー氏は 1940 年春,バーネットが創刊・編集したストーリー誌で最初の短編小説「若者たち(The Young Folks)」を発表した。これにより,彼は執筆を続けるようになり,1 年間の拒否の後、「サタデー・イブニング・ポスト」や「エスクァイア」などを含む雑誌に小説が掲載された。
第二次世界大戦中,彼は陸軍に従軍し,捕虜の尋問を行った。彼はノルマンディー上陸作戦とフランス解放に参加し,戦争で最も血なまぐさい戦闘を目撃したと言われている。ある時点で,彼は戦闘関連のストレスで入院したことがある。
1948 年,サリンジャー氏は,後に短編集「ナイン・ストーリーズ」に含まれる 3 つの物語を「ニューヨーカー」誌に掲載することで,ある程度の文学的認知度を達成した。その後,「ニューヨーカー」誌に登場した「エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに (For Esme -- With Love and Squalor)」などのストーリーが続いた。
「エズミに捧ぐ」は,サリンジャー氏の短編小説の中で最高だと批評家から言われた。それは,D デイの直前にデヴォンのティールームで出会ったアメリカ兵と 13 歳の英国人の少女と,彼らの異常な関係がその後,兵士が戦争の精神的ダメージを克服するのにどのように役立ったかを語った。
陸軍にいる間,サリンジャー氏はシルビアというナチス党の元メンバーと結婚したが,彼女についてはほとんど知られていない。
彼らは,その後すぐに離婚し,後年,サリンジャー氏は彼女のことを単に「Saliva(唾液)」と呼んだ。
サリンジャー氏は,英国の美術評論家ロバート・ラングトン・ダグラス(Robert Langton Douglas)の娘であるクレア・ダグラス(Claire Douglas)とも結婚し,離婚した。彼らにはマーガレットとマシューという 2 人の子供がいて,どちらも存命である。その後,彼は彼よりも数十歳年下の看護師,コリーン・オニール(Colleen O'Neill)(存命)と結婚した。
2009 年,マーガレット・サリンジャーは回想録「我が父サリンジャー(Dream Catcher)」を出版し,J.D. サリンジャーの娘としての彼女の初期の人生を語った。彼は怒った(angry)男で,ふつうは(regularly)家族を軽蔑していた(belittled)と彼女は書いた.彼女には,彼は人生において現実の人間よりも彼の文学の登場人物を好むように思えた。
「私と違って… 私の架空の兄弟(siblings)は完璧で,非の打ち所がない(flawless),私の父が好きだったものを反映していた」と彼女は回想録で語った。
ニューハンプシャーの家に隔絶された(seclusion)中で,父親は散歩をし,エキゾチックな健康食を維持し,彼の死後に出版される物語を書いていたと彼女は書いた。彼は型破りな(unorthodox)ユーモアのセンスを持っていて,水を手に持って,くしゃみのふりをしながら水を彼女の首の後ろで弾くなどの悪ふざけをするのが好きだったと彼女は思い出した。
彼は誰とでも親密な個人的関係を維持することができなかった,あるいは,維持しようとしなかった,と彼女は言った:「彼の探求は,彼を2次元の関係へと導いた:架空のグラス家と,あるいは手紙で出会った,生きている「ペンパル」と,それは,彼らの三次元の肉と血の存在が,古典的な悲劇が展開するのを見ることの必然性とともに,常に関係の崩壊の種をまくときまで続いた。
(転載了)
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『ライ麦畑でつかまえて』を読み始めたのは 1970年,51年前の学生時代でした。きっかけはよく覚えていませんが,当時の流行りだったのでしょうか。原文を読了するのに どのくらいの時間がかかったのか記憶にありませんが,保管している ペーパーバックは 相当 くたびれています。
最近は あまり見ない,「オフ・ホワイト」や「オリーブ・グリーン」のジーンズの尻ポケットに入れていて,時間があれば読んでいる工学部学生でした。
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