カテゴリー「昭和時代」の113件の投稿

2021年11月 6日 (土)

Super-Cool Playing Card

1964年から1988年まで出版された男性向け週刊誌「平凡パンチ」の表紙は,創刊から1971年(私は高校1年から大学4年)まで 大橋歩さんのイラストが使われました。買って読むことはあまりありませんでしたが,あちこちで見る機会があり,そのイラスト表紙は記憶に残っています。

米国のファッション・サイト ‘IVY STYLE’,MARCH 26, 2021付けに “Art Of The Deal: 1960s Japanese Playing Cards”(カードのアート:1969年代 日本のプレイング・カード)と題してその表紙イラストを使ったカードが紹介されていました。

下記,転載します。

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これが超クールな発見(a super-cool discovery):アーティストの大橋歩による雑誌「平凡パンチ」のカバーアートを使用した1960年代のプレイング・カードのパックである。

我々の翻訳者が言うところによると,カードには,さまざまな社会的状況やレジャー活動,そしてそれぞれの適切な服装(the proper attire)が描かれている。

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2021年10月 4日 (月)

さいとう・たかをさん逝去,昭和は遠くー

9月28日,さいとう・たかをさんが死去したと報じられました。

さいとう・たかをさんと言えば「ゴルゴ13」です。
それほど熱心に,自ら求めて読んではいませんが,目に付けば読みます。

コルゴ13」が掲載された(連載開始した)小学館の月刊誌「ビッグコミック」が創刊したのは,53年前の1968年(昭和43年),私が大学に入学した年でした。

手塚治虫,石森章太郎,白土三平,水木しげる,さいとう・たかを,藤子不二雄,楳図かずお,ちばてつや ・・・ という豪華寄稿陣に驚いて,大学1年だった私が 毎月購入する月刊誌 2誌の一つになりました。
もう一つは 婦人画報社のファッション誌「Men’s Club」でした。

翌年,「ビッグコミック」は 月2回の発行となり,当時の価格は覚えていませんが,経済的負担からでもないでしょうが,購入を止めました。
が,どこかで読んでいました。

ゴルゴ13」の掲載は継続されるそうですがー

昭和が遠くなりました。

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2021年4月 9日 (金)

‘Oldies’ の中でも 1961ー1963 の3年間の曲が特にー

毎朝の公園での軽運動中,YouTube から ワイアレス・イアフォン で音楽を聴いています。

いろんなジャンルを聴いて 現在は 60年代,70年代 米国の “Oldies” が1ヶ月ほど続いています。 
懐かしい曲が多いのですが,特に懐かしいのは 約60年前,1960年代前半のヒット曲です。

最も聴いていたのが中学生の頃(1961年ー1963年)で,家では勉強もせずに帰宅後は ほぼラジオでアメリカン・ポップスを中心に聴いていて記憶に残っています。高校に入ると 課外授業で帰宅時刻が遅くなって 遠のいていきました。

この時代の曲を思い出す限り(今回 聞いて思い出した曲も)挙げてみました。全て邦題(記憶が間違っていたら失礼)が付いています。
当時,日本の歌手がカバーした曲もあります。

American-pops
デル・シャノンの「悲しき街角」(Runaway)でー
   “ ・・・ 
    A-where she will stay-ay
    My little runaway
    Run, run, run, run, runaway の後の間奏には泣けます。

因みに 日本では 飯田久彦さん(のちに「テイチクエンターテイメント」社長など歴任)がカバーしました。
女性歌手の歌では “Bobby’s Girl”,“Johnny Get Angry”,“Johnny Angel”,“Be My Baby” など 60年前を思い出します。
現在 流行っている曲は 全く分かりません。

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遠足のおやつ,上限金額は40円。

価格表示が消費税を含めた「総額表示」になったことを伝える情報番組で,若い女性のコメンテーターが,「遠足のおやつの制限 300円の計算がめんどうですね」という意味のことを言っていました。

それを聞いて 団塊世代の私が「今は 300円なんだ。俺の時代は 40円だった。」とつぶやくと,2歳年下の家人が「ウソー,40円はないでしょう!」。

いえ,昭和30年代前半,遠足に待っていける菓子の上限は,間違いなく 40円でした。
それで 何が買えたか? 例えば,森永ミルクキャラメルもグリコも 1箱 10円でした。
中には その頃 登場し始めた 安売りのスーパーマーケットで買ったと言って,やや多めに持ってくる児童もいました。

この時代の話をすると,同じ世代でも 「ウッソー,それはない。」ということの一つに,教室の照明があります。

私が学んだ(?)北九州の小学校と中学校の教室には照明(蛍光灯。もちろん白熱灯も。)がありませんでした。
(九州の日没は遅い?)
光を大きく取り入れるため 教室の方向を考慮した校舎の配置をし,教室両側の窓は,取りうる最大の面積としていました。
時々,大雨が降って暗くなると 黒板の字が見えなくことがありましたが,それは滅多にないことでした。

当時は教室に電動鉛筆削りも TVも無かったので,教室には電源ソケットは存在せず,校内放送のスピーカー用の配線があっただけでした。
ここで,一つ疑問。小学6年生の時(1960年),私の通っていた小学校で火災が発生し(火災発生時,私は TVで「ライフルマン」を観ていたので 水曜日の20時前),教室の机の中に置きっぱなしにしていた体操服と地図帳の一部焦げ被害にあいました。私の教室は全焼を免れましたが,危険なため立ち入り禁止(床が抜ける?)。そこをクラスで一番軽量な者に頼んで(自分では危険なことはしない)体操服と地図帳を密かに持ち出してもらいました。決して 脅してやらせてはいません。
そして,その後,火災原因は漏電とされました。漏電するような電線がどこにあった?
私は 放火だと思っていました。

高校の教室の天井には 蛍光灯がありました。これは おそらく,主に定時制のためだったのでしょう。

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2020年11月10日 (火)

「セイタカアワダチソウ」の記憶。

セイタカアワダチソウ(背高泡立草,学名Solidago canadensis var. scabra または Solidago altissima)は,キク科アキノキリンソウ属多年草である。 北アメリカ原産で,日本では切り花用の観賞植物として導入された帰化植物外来種)であり、ススキなどの在来種と競合する。11月頃まで開花している。河原や空き地などに群生し,高さは1 - 2.5m,良く肥えた土地では3.5 - 4.5m程度にもなる日本における分布状況は,北海道の一部から沖縄までとなっており,一部調査で北限の変化が確認されたことから,繁殖域が北上している可能性がある。同時期に増えた,帰化植物のブタクサと時折間違われ,花粉症の原因だと言われるが,別の植物である。

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以上,Wikipedia から抜粋。

高校は男子クラスで,尚且つ 文字通り「花のない」,花瓶すらない教室でした。

ある朝,ふと教室の前を見ると 牛乳瓶に「セイタカアワダチソウ」が入れてありました。
誰かが 通学の途中に生えていたものを採ってきたものと思われました。

上述の「切り花用鑑賞植物として導入」からすると理にかなっていました。
なかなか 風情のある生徒がいたものです。

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2020年8月27日 (木)

昔,「帝人 街のチャンピオン」という番組があった。

先日,民放のBS で 「ザ・ピーナッツ」の特集番組を放送していました。

この中で 彼女たちが 渡辺プロダクションにスカウトされてデビューする経緯が話されとき,ふと 「帝人 街のチャンピオン」というTV番組が 彼女たちがTVで紹介された最初ではなかったのかーと思いましたが,この番組の紹介はありませんでした。

この番組は 芸達者な素人を紹介する番組で,彼女たちは 「名古屋の 歌のうまい双子姉妹」として紹介されたような気がします。
番組の司会は TV・実写版 「スーパーマン」の吹き替えをやっていた 大平透さんでした。
(この番組に関する情報は ネットで検索してもほぼ存在せず,「帝人(株)」のサイトで,過去 スポンサーをした番組として記載されているのみです。大平透さんのWkipediaにも この番組の情報はありません。)

いつだったか,は定かではありません。実家がTVを買ったのが 私が小学4年生の1958年だったので それ以後ですが,「1958年に同市内のレストランにて渡辺プロダクション社長の渡邊晋にスカウトされ上京。同社長宅に下宿しつつ宮川泰に師事し、歌唱レッスンを受ける。」とWikipediaに書いてあるので 1958年しかないことになります。

62年前のこととなると 記憶を確認することも困難になっていきます。

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2020年8月13日 (木)

50年前の学生時代,福岡天神 西鉄名店街でよく食べたのはー

50年前の1970年(昭和45年)前後,4年間の学生時代を福岡市で過ごしました。
その頃,仕送り内で生活するため,食事は三食とも,ほぼ学生食堂で済ませていたので,その後(?)有名になった 「(豚骨)ラーメン」,「うどん」,「モツ鍋」などを食べた記憶は あまりありません。

唯一 記憶があるのはー
天神・西鉄名店街にあった 「ナイル」の「カレー」です。天神に出た時(映画,書店,ジャズ喫茶,諸々買い物,・・・ ),食事の時刻にかかれば ほぼ,ここに行きました。はっきりした記憶はありませんが,おそらく 「味」,「量」,「値段」,「待ち時間」の総合評価で選択したものと思います。
特に 大学2年のとき半年近くのストライキで講義が受けられなかった時など よく近辺をウロウロしていました。(半年-夏休みを含めー講義を受けず,大学がどのような策を使って 4年間でスケジュールどおり卒業できるようにしたのかーよく覚えていません。)

今,どうなっているのかと ネットで調べるとー
2009年に閉店し,別の企業が 博多駅内で引き継いでいるようです。

そのサイトによると -

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かつて西鉄名店街にあった 伝説のカレー店。

地元で愛され,有名ミュージシャンや芸能人も足しげく通った福岡博多の名店です。元祖ナイルは2009年に多くのファンに惜しまれながら閉店。前オーナーの意志(原文のまま)を受け継ぐために工房を買い取りナイルのレシピを継承した益正グループが,「またお店で食べたい」というお客様の声に応えて、博多阪急の地下に復活させました。

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有名ミュージシャンとはー
近くの「照和」に出ていた 「海援隊」,「井上陽水」,「チューリップ」,「甲斐バンド」などの諸氏でしょうか・・・・。
当時は知らない方々だったので 店で遭遇していたかどうか分りません。

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2020年5月 8日 (金)

「優勝劣敗」から 「運動会の歌」を思い出した。

TVのクイズ番組で,「『XXぱい』の言葉?」の設問に対して 林先生が 「優勝劣敗」と答えました。
それを聞いて思い出しました。
かつて 「優勝劣敗」の言葉を言ったのも 聞いたのも この歌の歌詞しかありません。

約60年前,小学校の運動会で歌わされた 「運動会の歌」です。
(60年前故,間違いあればご容赦)

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運動会の歌 

待ちに待ちたる運動会
来たれり来たれり ああ愉快
吹く風涼しく 日はうららか
鍛えし技術を練りたる手並み
正々堂々いざ出で示さん
真っ先かけて遅れはとらじ
真っ先かけて遅れはとらじ

競い競いし運動会
終われり終われり ああ愉快
日は早かたむき 夕風涼し
日頃の錬磨はその功を顕著
優勝劣敗審判済みて
凱歌の声は天にも響く
凱歌の声は天にも響く

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時は 昭和30年代,場所は北九州市(当時はまだ市ではなかった。)。

小学生には難解な文語調です。
しかし,「血沸き肉躍る」ような勢いがあります。
調べると,作詞・作曲者 不詳 で 明治時代に作られた歌のようです。

真っ先かけて遅れはとらじ」の繰り返しに 60年前,力が入りました。
真っ先にかけたとは限りませんが,小学校6年間,遅れをとったことは一度もありませんでした。

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2019年8月 5日 (月)

スリッパ 4足を 東京から買って帰ったことがあった。

35年ほど前,東京出張の帰りにスリッパを買って帰ったことがありました。

当時,広島から東京での会議出席のための出張は,往復とも 寝台特急によるもので 一日の仕事を終えて 広島発 19:30(頃)の「あさかぜ」に乗り。東京に 7:30(頃)着いて駅で朝食を摂り,本社での会議に出席して その夕方 19:30(頃)東京発の 「あさかぜ」に乗って 7時30分(頃)広島駅に着いて フォームの立ち食いソバで朝食を済ませて会社に行って 通常の勤務に就く,というものでした。

ある時の出張の際,家人に 雑誌に載っているスリッパの写真を見せられ,これを4足,東京で買ってきてほしい,と頼まれました。
当時,発売開始して間が無い 「無印良品」のスリッパでした。

現在,「無印良品」は その店舗を “MUJI” として世界に展開し,今年は 銀座に その名を冠したホテルを作るほど大きく,有名になりましたが,当時はまだ 広島で購入することはできませんでした(?)。

出張帰りに紙袋を下げるのは趣味ではないので,スリッパを入れるために,ほぼ空のやや大型の`Over-Night Bag’ を持って出かけました。

1980年(昭和55年) 西友が 「無印良品」の発売を開始しました。

1984年(昭和59年) 有楽町マリオン(有楽町センタービル)が竣工し,銀座側に 「西武百貨店」が入り(2010年既に閉店),1階の1角で 「無印良品」を扱っていました。(記録によれば 1984年 全国155店舗,1985年 全国出店達成。広島にも既に店があった?)

私は 仕事が終わって ,有楽町に行って スリッパを買い,東京駅で「あさかぜ」に乗って 東京出張の役目を果たしたのでした。
大きさの割に,軽い鞄でした。

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2019年4月30日 (火)

見なくなって何十年にもなるもの

平成の時代が終わり,昭和は ますます遠くなります。

昭和時代には存在せず,平成になって出現したものは多くありますが,
逆に,昭和の半ば,あるいはそれ以上前にあって 今はほとんどないもの,聞かないもの,しないもの,見ないものを思いつくまま,ジャンルを限らず挙げてみました。

・苦いきゅうり
   何本かに1本は 必ず苦い胡瓜があった。今はない。

・野犬と野犬捕獲員(犬捕り)
   針金の先に作った輪で逃げる野犬の首を引っかけるように捕えていた。

・行商(人)
   例えば 「竿竹」,「榊と花」,「豆腐と納豆」,「麦茶と 『はったい粉』」,「心太と 『おきゅうと』」,「金魚」(!)
   夏休みによく その売り声を聞いた。(北九州にて)

・無舗装道路
   雨の日は長靴が必需品だった。砂利さえ敷かれてなかった。

・押し売り
   「出てきたばかりで ・・・ 」などとと言いながら ゴム紐などを売りにきた。
   母は「帰らないと 警察に電話しますよ。」と言いたいところだったろうが,
   家に 電話はなかった。

・寝押し(寝圧し)
   実際にしている人がいなくなったかどうかは家庭内のことで不明だが,言葉を見たり,聞いたりすることがなくなった。
   私は,中学生時代,テトロンの学生服のズボンを毎晩,寝押ししていた。
   新聞紙でうまく挟まれてなかったのか,時々 畳の目の跡がついた。

・主婦が買い物時に持っていた「買い物籠」
   所謂,レジ袋(ビニール袋)はなく,普通 店では商品を新聞紙で包んだ。
   それを 竹や 何かの蔓などで編んだ買い物籠に入れて持ち帰った。
   冷蔵庫が普及してない頃,生鮮食品の買い置きはできず,毎日の買い物量は多くなかった。

・街角の傷痍軍人

・二階席のある映画館
  (まだある。)

・・・

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