カテゴリー「昭和時代」の109件の投稿

2020年11月10日 (火)

「セイタカアワダチソウ」の記憶。

セイタカアワダチソウ(背高泡立草,学名Solidago canadensis var. scabra または Solidago altissima)は,キク科アキノキリンソウ属多年草である。 北アメリカ原産で,日本では切り花用の観賞植物として導入された帰化植物外来種)であり、ススキなどの在来種と競合する。11月頃まで開花している。河原や空き地などに群生し,高さは1 - 2.5m,良く肥えた土地では3.5 - 4.5m程度にもなる日本における分布状況は,北海道の一部から沖縄までとなっており,一部調査で北限の変化が確認されたことから,繁殖域が北上している可能性がある。同時期に増えた,帰化植物のブタクサと時折間違われ,花粉症の原因だと言われるが,別の植物である。

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以上,Wikipedia から抜粋。

高校は男子クラスで,尚且つ 文字通り「花のない」,花瓶すらない教室でした。

ある朝,ふと教室の前を見ると 牛乳瓶に「セイタカアワダチソウ」が入れてありました。
誰かが 通学の途中に生えていたものを採ってきたものと思われました。

上述の「切り花用鑑賞植物として導入」からすると理にかなっていました。
なかなか 風情のある生徒がいたものです。

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2020年8月27日 (木)

昔,「帝人 街のチャンピオン」という番組があった。

先日,民放のBS で 「ザ・ピーナッツ」の特集番組を放送していました。

この中で 彼女たちが 渡辺プロダクションにスカウトされてデビューする経緯が話されとき,ふと 「帝人 街のチャンピオン」というTV番組が 彼女たちがTVで紹介された最初ではなかったのかーと思いましたが,この番組の紹介はありませんでした。

この番組は 芸達者な素人を紹介する番組で,彼女たちは 「名古屋の 歌のうまい双子姉妹」として紹介されたような気がします。
番組の司会は TV・実写版 「スーパーマン」の吹き替えをやっていた 大平透さんでした。
(この番組に関する情報は ネットで検索してもほぼ存在せず,「帝人(株)」のサイトで,過去 スポンサーをした番組として記載されているのみです。大平透さんのWkipediaにも この番組の情報はありません。)

いつだったか,は定かではありません。実家がTVを買ったのが 私が小学4年生の1958年だったので それ以後ですが,「1958年に同市内のレストランにて渡辺プロダクション社長の渡邊晋にスカウトされ上京。同社長宅に下宿しつつ宮川泰に師事し、歌唱レッスンを受ける。」とWikipediaに書いてあるので 1958年しかないことになります。

62年前のこととなると 記憶を確認することも困難になっていきます。

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2020年8月13日 (木)

50年前の学生時代,福岡天神 西鉄名店街でよく食べたのはー

50年前の1970年(昭和45年)前後,4年間の学生時代を福岡市で過ごしました。
その頃,仕送り内で生活するため,食事は三食とも,ほぼ学生食堂で済ませていたので,その後(?)有名になった 「(豚骨)ラーメン」,「うどん」,「モツ鍋」などを食べた記憶は あまりありません。

唯一 記憶があるのはー
天神・西鉄名店街にあった 「ナイル」の「カレー」です。天神に出た時(映画,書店,ジャズ喫茶,諸々買い物,・・・ ),食事の時刻にかかれば ほぼ,ここに行きました。はっきりした記憶はありませんが,おそらく 「味」,「量」,「値段」,「待ち時間」の総合評価で選択したものと思います。
特に 大学2年のとき半年近くのストライキで講義が受けられなかった時など よく近辺をウロウロしていました。(半年-夏休みを含めー講義を受けず,大学がどのような策を使って 4年間でスケジュールどおり卒業できるようにしたのかーよく覚えていません。)

今,どうなっているのかと ネットで調べるとー
2009年に閉店し,別の企業が 博多駅内で引き継いでいるようです。

そのサイトによると -

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かつて西鉄名店街にあった 伝説のカレー店。

地元で愛され,有名ミュージシャンや芸能人も足しげく通った福岡博多の名店です。元祖ナイルは2009年に多くのファンに惜しまれながら閉店。前オーナーの意志(原文のまま)を受け継ぐために工房を買い取りナイルのレシピを継承した益正グループが,「またお店で食べたい」というお客様の声に応えて、博多阪急の地下に復活させました。

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有名ミュージシャンとはー
近くの「照和」に出ていた 「海援隊」,「井上陽水」,「チューリップ」,「甲斐バンド」などの諸氏でしょうか・・・・。
当時は知らない方々だったので 店で遭遇していたかどうか分りません。

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2020年5月 8日 (金)

「優勝劣敗」から 「運動会の歌」を思い出した。

TVのクイズ番組で,「『XXぱい』の言葉?」の設問に対して 林先生が 「優勝劣敗」と答えました。
それを聞いて思い出しました。
かつて 「優勝劣敗」の言葉を言ったのも 聞いたのも この歌の歌詞しかありません。

約60年前,小学校の運動会で歌わされた 「運動会の歌」です。
(60年前故,間違いあればご容赦)

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運動会の歌 

待ちに待ちたる運動会
来たれり来たれり ああ愉快
吹く風涼しく 日はうららか
鍛えし技術を練りたる手並み
正々堂々いざ出で示さん
真っ先かけて遅れはとらじ
真っ先かけて遅れはとらじ

競い競いし運動会
終われり終われり ああ愉快
日は早かたむき 夕風涼し
日頃の錬磨はその功を顕著
優勝劣敗審判済みて
凱歌の声は天にも響く
凱歌の声は天にも響く

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時は 昭和30年代,場所は北九州市(当時はまだ市ではなかった。)。

小学生には難解な文語調です。
しかし,「血沸き肉躍る」ような勢いがあります。
調べると,作詞・作曲者 不詳 で 明治時代に作られた歌のようです。

真っ先かけて遅れはとらじ」の繰り返しに 60年前,力が入りました。
真っ先にかけたとは限りませんが,小学校6年間,遅れをとったことは一度もありませんでした。

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2019年8月 5日 (月)

スリッパ 4足を 東京から買って帰ったことがあった。

35年ほど前,東京出張の帰りにスリッパを買って帰ったことがありました。

当時,広島から東京での会議出席のための出張は,往復とも 寝台特急によるもので 一日の仕事を終えて 広島発 19:30(頃)の「あさかぜ」に乗り。東京に 7:30(頃)着いて駅で朝食を摂り,本社での会議に出席して その夕方 19:30(頃)東京発の 「あさかぜ」に乗って 7時30分(頃)広島駅に着いて フォームの立ち食いソバで朝食を済ませて会社に行って 通常の勤務に就く,というものでした。

ある時の出張の際,家人に 雑誌に載っているスリッパの写真を見せられ,これを4足,東京で買ってきてほしい,と頼まれました。
当時,発売開始して間が無い 「無印良品」のスリッパでした。

現在,「無印良品」は その店舗を “MUJI” として世界に展開し,今年は 銀座に その名を冠したホテルを作るほど大きく,有名になりましたが,当時はまだ 広島で購入することはできませんでした(?)。

出張帰りに紙袋を下げるのは趣味ではないので,スリッパを入れるために,ほぼ空のやや大型の`Over-Night Bag’ を持って出かけました。

1980年(昭和55年) 西友が 「無印良品」の発売を開始しました。

1984年(昭和59年) 有楽町マリオン(有楽町センタービル)が竣工し,銀座側に 「西武百貨店」が入り(2010年既に閉店),1階の1角で 「無印良品」を扱っていました。(記録によれば 1984年 全国155店舗,1985年 全国出店達成。広島にも既に店があった?)

私は 仕事が終わって ,有楽町に行って スリッパを買い,東京駅で「あさかぜ」に乗って 東京出張の役目を果たしたのでした。
大きさの割に,軽い鞄でした。

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2019年4月30日 (火)

見なくなって何十年にもなるもの

平成の時代が終わり,昭和は ますます遠くなります。

昭和時代には存在せず,平成になって出現したものは多くありますが,
逆に,昭和の半ば,あるいはそれ以上前にあって 今はほとんどないもの,聞かないもの,しないもの,見ないものを思いつくまま,ジャンルを限らず挙げてみました。

・苦いきゅうり
   何本かに1本は 必ず苦い胡瓜があった。今はない。

・野犬と野犬捕獲員(犬捕り)
   針金の先に作った輪で逃げる野犬の首を引っかけるように捕えていた。

・行商(人)
   例えば 「竿竹」,「榊と花」,「豆腐と納豆」,「麦茶と 『はったい粉』」,「心太と 『おきゅうと』」,「金魚」(!)
   夏休みによく その売り声を聞いた。(北九州にて)

・無舗装道路
   雨の日は長靴が必需品だった。砂利さえ敷かれてなかった。

・押し売り
   「出てきたばかりで ・・・ 」などとと言いながら ゴム紐などを売りにきた。
   母は「帰らないと 警察に電話しますよ。」と言いたいところだったろうが,
   家に 電話はなかった。

・寝押し(寝圧し)
   実際にしている人がいなくなったかどうかは家庭内のことで不明だが,言葉を見たり,聞いたりすることがなくなった。
   私は,中学生時代,テトロンの学生服のズボンを毎晩,寝押ししていた。
   新聞紙でうまく挟まれてなかったのか,時々 畳の目の跡がついた。

・主婦が買い物時に持っていた「買い物籠」
   所謂,レジ袋(ビニール袋)はなく,普通 店では商品を新聞紙で包んだ。
   それを 竹や 何かの蔓などで編んだ買い物籠に入れて持ち帰った。
   冷蔵庫が普及してない頃,生鮮食品の買い置きはできず,毎日の買い物量は多くなかった。

・街角の傷痍軍人

・二階席のある映画館
  (まだある。)

・・・

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2018年12月19日 (水)

1970年,大阪万博の頃。

2025年 大阪万国博覧会の開催が決定して,大喜びの人たちの様子がTVで報道されていました。

それほど市井の民が喜ぶことなのかと,やや不思議に思いました。
これは 私自身が 万国博覧会に それほど興味がないことに起因しているのかも知れません。

これは昔からで,21歳の大学3年だった1970年(昭和45年)の大阪万博にも行っていません。

九州に住んでいて,まだ新幹線が岡山までしか開通しておらず,交通の不便さが理由だったわけではありません。

19世紀にロンドンやパリで開催された万国博覧会は,インターネット,テレビは勿論,映画技術もなく(幻燈?),電話,写真がやっと,交通機関も船と鉄道という,限られた周りの出来事,様子を文字か貧弱な白黒写真でしか知ることができなかった広すぎる世界の時代には大きな意味があったことは間違いありませんが,現代における意味を完全には認めていませんでした。

1970年,大阪万博開催中の夏休み,2週間あまりの工場実習のため,交通費会社負担で東京に行きましたが,帰りに大阪に寄ろうという気は全く起こりませんでした。

それよりも 東京では,どうやって九州まで帰ろうかと思案していました。

東京に行くときは おそらく 寝台列車のブルートレイン(「あさかぜ」,「さくら」,「はやぶさ」,「みずほ」,「ふじ」のどれか)を使いましたが,時期の問題か,帰りは ブルートレインの予約をとるのが無理でした。
当時の切符販売は,コンピュータがなかったのか,あっても貧弱だったのか,それとも別の理由かで,乗車1週間前からでした。
しかも,ある駅で満席の列車が,別の駅で入手可能なこともありました。

切符を買う列が長い東京駅を避け,おそらく有楽町駅でやっと入手した切符は 東京発下関行の臨時急行でした。寝台はなく,座席です。

昼間から走る臨時急行は 正規運行の列車を優先させるため,度々 停車し,下関に到着するのに おそらく 20時間以上かかったと思います。
特に 静岡県が広く,ここを通過する時間の長さが印象的でした。

ー という訳で 1970年の大阪万博は 世間の騒々しさと,人気パビリオンの長い行列の報道と,三波春夫の歌しか記憶にありません。

因みに 日本で開催された国際博覧会にはー

1970 国際万国博覧会 (大阪) 「大阪万博」
1975/6 沖縄海洋国際博覧会(沖縄) 「沖縄海洋博」
1985 国際科学技術博覧会 (筑波) 「筑波科学博」
1990 国際花と緑の博覧会(大阪) 「花の万博」
2005 2005年日本国際博覧会(愛知) 「愛知万博」

がありますが,どれにも行っていません。

国際博覧会の定義は 「複数の国が参加した,公衆の教育を主たる目的とする催しであり,文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは複数の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう。」となっています。

おそらく 博覧会で公開されるものや情報は,現代では個別に知る,あるいは入手できるものがほとんどで,初公開されるものが どのくらいあるのか疑問で,2025年も行かないでしょう,行く体力有無の方が問題かも知れませんが ・・・ 。

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2018年5月 4日 (金)

現役時代の海外航空券の買い方などー

このゴールデン・ウィークには 58万5千人が海外旅行に出かけるそうです。

現役サラリーマン時代,40年ほど前に初めて海外出張に行き,以来 何度か 海外に行く機会がありましたが,航空券の手配方法に3種類ありました。

① 帰りの便も予約して出発する場合:
    多くの出張は 予定通りに行かないので,復便を決めず オープン(支払い済み)切符を手配して発つことが多かったのですが,例えば シンポジウムなどのようにスケジュールが変わりようがない場合,復便を固定して発ちました。
    この場合,気になるのが ‘Reconfirmation’で, 到着して 復便まで 72時間(3日間)以上の場合,航空会社の営業所に 「リコンファーム」する必要があって,しなかった場合,航空会社にキャンセルされる場合があって 文句は言えないと,海外旅行ガイドブックに書いてありました。
    直接 営業所に行って口頭で伝えるのは容易ですが,電話の場合,言うことは簡単ですが,相手が こちらが予想してないことを話し始めた場合,聴き取れるかどうかの不安がありました。
   そこで 多くの場合,ホテルの従業員 もしくは 仕事相手の会社の人に頼んでいました。
   最近は 「リコンファーム」の義務がある航空会社は少なくなっているようです。

② 復便をオープンで発つ場合:
    多くの場合,これでした。
    帰りの日が決まれば,これも 仕事相手の会社の誰かに頼むか,泊まっているホテルの近くに営業所があれば出向いて予約しました。

③ 片道切符の場合:
    これは 1970年代の半ばから後半の時期,会社指示で,海外出張は片道切符のみ手配して出発しました。
    当時 ヨーロッパまでの片道運賃(ビジネスクラスは未だなく,エコノミークラス)はUS$1,000 で,かつ,既に変動為替になっていたにもかかわらず,航空運賃におけるレートは   \300/US$ に固定されており,日本で買えば 往復 60万円になりました。
    ところが 現地で買えば 変動為替による実質レートで,例えば \200/US$ なら 20万円となり,日本で往復を買うのに比べ 10万円安くなったのです。
    この航空運賃における レート 300円/ドルが,いつからいつまでだったのか(調べても)分りませんでした。

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   上図は円ドル為替の推移で,1971年までは \360/US$,1973年まで \308/US$ で固定されていましたが,1973年から変動為替となって 1970年代後半は \200/US$ を超えるまで 円高に向かいました。
   ちょうど その頃にヨーロッパに行くときは,片道切符で発たざるを得ませんでした。
   おそらく 航空会社の営業所で復便の切符を買ったと思いますが,当時(ヨーロッパでは普通でも) 私は クレジット・カードを持っておらず(持ったのは その10年後),トラベラーズ・チェック(もしくは現金)で $1,000 の支払いをして スタッフが驚いていた(恐らく 個人が$1,000の現金を支払うケースは少ないので)ことを覚えています。

いつまでだったか分りませんが,私が初めてパスポートを持った時代(1970年代初め)は,ポスポート申請には 「預金通帳」あるいは 「会社の出張命令書」が必要でした。
それだけ 現在に比べると,平均収入に対して 海外旅行(航空運賃)が高価で,経済的裏付けがなければパスポートを取ることができなかったということのようです。

平成もあとわずか,昭和が更に遠くなります。   

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2017年8月 1日 (火)

ロータリー・エンジン搭載車発売 50年で思い出したこと。

マツダ(株)が 1967年(昭和42年)に 初のロータリーエンジン搭載車 コスモスポーツを発売して50年経ち,朝日新聞で 「飽くなき挑戦  ロータリーエンジンの半世紀」と題して特集記事が掲載されていました。

これで 思い出したことがあります。

該当車種が 「コスモスポーツ」だったかどうかは確かではありませんが,2 シーターなのでこの車の可能性が高いと思います。

マツダ(当時の「東洋工業(株)」)が 2 シーターのスポーツ車を売り出そうとしたとき,運輸省(現 国土交通省)の認可(型式認証制度による)がなかなか得られなかった,半ば嫌がらせのような目にあったと何かで読んだ記憶があります。

書かれていた不認可理由として (おそらく) ー
   ①ラジエター・グリルが無くて(はっきりしないデザインで) 車らしくない。
   ②2人乗りスポーツカーは 日本の交通事情に ふさわしくない。

の 非論理的で,認可業務の目的とは関係ない,すんなりとは納得できないことが挙げられていたように思います。
それでも 何とか認可を受け,発売にこぎつけたということです。

「2人乗りのスポーツカーを 他社では造っているではないか。」
の抗議に対しては 「過去に造っている実績がある他社はいい。」と言ったとかー。

因みに 日本のスポーツカー(2 シーター)を思い出すまま挙げると ー

【トヨタ】
「トヨタ・スポーツ800」 1965年(昭和40年)
「トヨタ・2000GT」       1967年(昭和42年)

【日産】
ダットサン・フェアレディ1500」 (3人乗り),1962年(昭和37年)
「日産シルビア(初代)」  1965年(昭和40年)
日産・フェアレディZ(ダットサン240Z)」  1969年(昭和44年)

【ホンダ】
ホンダ・S500/600/800」 1963/64/66年(昭和38/39/41年)

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2017年7月12日 (水)

体育祭種目 「俵運び」,60kgは無理だった。

TVで米一俵の重さの話をしていて,高校の体育祭での「俵運び」を思い出しました。

約50年前の高校の体育祭の種目に クラス対抗の 「俵運び」リレーがありました。

米1俵の重さ 60kg分の砂が入った俵(ドンゴロスなど,布の袋?)を クラス選抜10名(?)がリレーで運ぶという種目でした。

ところが,練習時に,60kgではリレーにならないことが分り,結局 本番は 半分の30kgにしたのです。

まず,60kgを肩に載せて うまく走ることができない。
それ以前に,重心が肩にうまく載ってないと ふらついて動けない。
第一走者は いいにしても,受け渡しで次の走者の肩に重心がくるように載せるのが難しい。
一旦 落とすと 一人では肩まで持ち上げることができない。
ー等々 で 60kg を 30kg に落としたのです。

疑問は 「俵運び」が新種目だったのか?
恒例の種目なら 前年は 60kg で実施したのか?

今となっては 分りません。

Wikipedia にはー

「かつては60 kgの米俵を担ぎあげて運ぶことができれば,一人前の労働者とみなされた(世界大百科事典)。1俵は労働者一人が担いで運ぶ量であり,2俵は馬一匹の積載量であったため,米の出荷・保管・輸送に便利であった。タイなど海外ではいまだに60キロ袋が米の流通に使用されているが,重労働に慣れない現代日本人には60 kgの米俵を扱うことは難しくなり,出荷流通の米袋は 『半俵』 の30kg入りの紙袋包装が普通となった。」
ーとあります。

50年前の高校生は,既に 一人前の労働者とは見做されない体力しかありませんでした。

昔,従兄から聞いた話ー
「 xxばあさんは,土間の掃除をしていて 米俵があるところは 左手でそれを持ち上げて 右手の箒でその下を掃いていた。」

昔の人は力があった!

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