カテゴリー「昭和時代」の105件の投稿

2019年8月 5日 (月)

スリッパ 4足を 東京から買って帰ったことがあった。

35年ほど前,東京出張の帰りにスリッパを買って帰ったことがありました。

当時,広島から東京での会議出席のための出張は,往復とも 寝台特急によるもので 一日の仕事を終えて 広島発 19:30(頃)の「あさかぜ」に乗り。東京に 7:30(頃)着いて駅で朝食を摂り,本社での会議に出席して その夕方 19:30(頃)東京発の 「あさかぜ」に乗って 7時30分(頃)広島駅に着いて フォームの立ち食いソバで朝食を済ませて会社に行って 通常の勤務に就く,というものでした。

ある時の出張の際,家人に 雑誌に載っているスリッパの写真を見せられ,これを4足,東京で買ってきてほしい,と頼まれました。
当時,発売開始して間が無い 「無印良品」のスリッパでした。

現在,「無印良品」は その店舗を “MUJI” として世界に展開し,今年は 銀座に その名を冠したホテルを作るほど大きく,有名になりましたが,当時はまだ 広島で購入することはできませんでした(?)。

出張帰りに紙袋を下げるのは趣味ではないので,スリッパを入れるために,ほぼ空のやや大型の`Over-Night Bag’ を持って出かけました。

1980年(昭和55年) 西友が 「無印良品」の発売を開始しました。

1984年(昭和59年) 有楽町マリオン(有楽町センタービル)が竣工し,銀座側に 「西武百貨店」が入り(2010年既に閉店),1階の1角で 「無印良品」を扱っていました。(記録によれば 1984年 全国155店舗,1985年 全国出店達成。広島にも既に店があった?)

私は 仕事が終わって ,有楽町に行って スリッパを買い,東京駅で「あさかぜ」に乗って 東京出張の役目を果たしたのでした。
大きさの割に,軽い鞄でした。

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2019年4月30日 (火)

見なくなって何十年にもなるもの

平成の時代が終わり,昭和は ますます遠くなります。

昭和時代には存在せず,平成になって出現したものは多くありますが,
逆に,昭和の半ば,あるいはそれ以上前にあって 今はほとんどないもの,聞かないもの,しないもの,見ないものを思いつくまま,ジャンルを限らず挙げてみました。

・苦いきゅうり
   何本かに1本は 必ず苦い胡瓜があった。今はない。

・野犬と野犬捕獲員(犬捕り)
   針金の先に作った輪で逃げる野犬の首を引っかけるように捕えていた。

・行商(人)
   例えば 「竿竹」,「榊と花」,「豆腐と納豆」,「麦茶と 『はったい粉』」,「心太と 『おきゅうと』」,「金魚」(!)
   夏休みによく その売り声を聞いた。(北九州にて)

・無舗装道路
   雨の日は長靴が必需品だった。砂利さえ敷かれてなかった。

・押し売り
   「出てきたばかりで ・・・ 」などとと言いながら ゴム紐などを売りにきた。
   母は「帰らないと 警察に電話しますよ。」と言いたいところだったろうが,
   家に 電話はなかった。

・寝押し(寝圧し)
   実際にしている人がいなくなったかどうかは家庭内のことで不明だが,言葉を見たり,聞いたりすることがなくなった。
   私は,中学生時代,テトロンの学生服のズボンを毎晩,寝押ししていた。
   新聞紙でうまく挟まれてなかったのか,時々 畳の目の跡がついた。

・主婦が買い物時に持っていた「買い物籠」
   所謂,レジ袋(ビニール袋)はなく,普通 店では商品を新聞紙で包んだ。
   それを 竹や 何かの蔓などで編んだ買い物籠に入れて持ち帰った。
   冷蔵庫が普及してない頃,生鮮食品の買い置きはできず,毎日の買い物量は多くなかった。

・街角の傷痍軍人

・二階席のある映画館
  (まだある。)

・・・

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2018年12月19日 (水)

1970年,大阪万博の頃。

2025年 大阪万国博覧会の開催が決定して,大喜びの人たちの様子がTVで報道されていました。

それほど市井の民が喜ぶことなのかと,やや不思議に思いました。
これは 私自身が 万国博覧会に それほど興味がないことに起因しているのかも知れません。

これは昔からで,21歳の大学3年だった1970年(昭和45年)の大阪万博にも行っていません。

九州に住んでいて,まだ新幹線が岡山までしか開通しておらず,交通の不便さが理由だったわけではありません。

19世紀にロンドンやパリで開催された万国博覧会は,インターネット,テレビは勿論,映画技術もなく(幻燈?),電話,写真がやっと,交通機関も船と鉄道という,限られた周りの出来事,様子を文字か貧弱な白黒写真でしか知ることができなかった広すぎる世界の時代には大きな意味があったことは間違いありませんが,現代における意味を完全には認めていませんでした。

1970年,大阪万博開催中の夏休み,2週間あまりの工場実習のため,交通費会社負担で東京に行きましたが,帰りに大阪に寄ろうという気は全く起こりませんでした。

それよりも 東京では,どうやって九州まで帰ろうかと思案していました。

東京に行くときは おそらく 寝台列車のブルートレイン(「あさかぜ」,「さくら」,「はやぶさ」,「みずほ」,「ふじ」のどれか)を使いましたが,時期の問題か,帰りは ブルートレインの予約をとるのが無理でした。
当時の切符販売は,コンピュータがなかったのか,あっても貧弱だったのか,それとも別の理由かで,乗車1週間前からでした。
しかも,ある駅で満席の列車が,別の駅で入手可能なこともありました。

切符を買う列が長い東京駅を避け,おそらく有楽町駅でやっと入手した切符は 東京発下関行の臨時急行でした。寝台はなく,座席です。

昼間から走る臨時急行は 正規運行の列車を優先させるため,度々 停車し,下関に到着するのに おそらく 20時間以上かかったと思います。
特に 静岡県が広く,ここを通過する時間の長さが印象的でした。

ー という訳で 1970年の大阪万博は 世間の騒々しさと,人気パビリオンの長い行列の報道と,三波春夫の歌しか記憶にありません。

因みに 日本で開催された国際博覧会にはー

1970 国際万国博覧会 (大阪) 「大阪万博」
1975/6 沖縄海洋国際博覧会(沖縄) 「沖縄海洋博」
1985 国際科学技術博覧会 (筑波) 「筑波科学博」
1990 国際花と緑の博覧会(大阪) 「花の万博」
2005 2005年日本国際博覧会(愛知) 「愛知万博」

がありますが,どれにも行っていません。

国際博覧会の定義は 「複数の国が参加した,公衆の教育を主たる目的とする催しであり,文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは複数の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう。」となっています。

おそらく 博覧会で公開されるものや情報は,現代では個別に知る,あるいは入手できるものがほとんどで,初公開されるものが どのくらいあるのか疑問で,2025年も行かないでしょう,行く体力有無の方が問題かも知れませんが ・・・ 。

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2018年5月 4日 (金)

現役時代の海外航空券の買い方などー

このゴールデン・ウィークには 58万5千人が海外旅行に出かけるそうです。

現役サラリーマン時代,40年ほど前に初めて海外出張に行き,以来 何度か 海外に行く機会がありましたが,航空券の手配方法に3種類ありました。

① 帰りの便も予約して出発する場合:
    多くの出張は 予定通りに行かないので,復便を決めず オープン(支払い済み)切符を手配して発つことが多かったのですが,例えば シンポジウムなどのようにスケジュールが変わりようがない場合,復便を固定して発ちました。
    この場合,気になるのが ‘Reconfirmation’で, 到着して 復便まで 72時間(3日間)以上の場合,航空会社の営業所に 「リコンファーム」する必要があって,しなかった場合,航空会社にキャンセルされる場合があって 文句は言えないと,海外旅行ガイドブックに書いてありました。
    直接 営業所に行って口頭で伝えるのは容易ですが,電話の場合,言うことは簡単ですが,相手が こちらが予想してないことを話し始めた場合,聴き取れるかどうかの不安がありました。
   そこで 多くの場合,ホテルの従業員 もしくは 仕事相手の会社の人に頼んでいました。
   最近は 「リコンファーム」の義務がある航空会社は少なくなっているようです。

② 復便をオープンで発つ場合:
    多くの場合,これでした。
    帰りの日が決まれば,これも 仕事相手の会社の誰かに頼むか,泊まっているホテルの近くに営業所があれば出向いて予約しました。

③ 片道切符の場合:
    これは 1970年代の半ばから後半の時期,会社指示で,海外出張は片道切符のみ手配して出発しました。
    当時 ヨーロッパまでの片道運賃(ビジネスクラスは未だなく,エコノミークラス)はUS$1,000 で,かつ,既に変動為替になっていたにもかかわらず,航空運賃におけるレートは   \300/US$ に固定されており,日本で買えば 往復 60万円になりました。
    ところが 現地で買えば 変動為替による実質レートで,例えば \200/US$ なら 20万円となり,日本で往復を買うのに比べ 10万円安くなったのです。
    この航空運賃における レート 300円/ドルが,いつからいつまでだったのか(調べても)分りませんでした。

A
   上図は円ドル為替の推移で,1971年までは \360/US$,1973年まで \308/US$ で固定されていましたが,1973年から変動為替となって 1970年代後半は \200/US$ を超えるまで 円高に向かいました。
   ちょうど その頃にヨーロッパに行くときは,片道切符で発たざるを得ませんでした。
   おそらく 航空会社の営業所で復便の切符を買ったと思いますが,当時(ヨーロッパでは普通でも) 私は クレジット・カードを持っておらず(持ったのは その10年後),トラベラーズ・チェック(もしくは現金)で $1,000 の支払いをして スタッフが驚いていた(恐らく 個人が$1,000の現金を支払うケースは少ないので)ことを覚えています。

いつまでだったか分りませんが,私が初めてパスポートを持った時代(1970年代初め)は,ポスポート申請には 「預金通帳」あるいは 「会社の出張命令書」が必要でした。
それだけ 現在に比べると,平均収入に対して 海外旅行(航空運賃)が高価で,経済的裏付けがなければパスポートを取ることができなかったということのようです。

平成もあとわずか,昭和が更に遠くなります。   

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2017年8月 1日 (火)

ロータリー・エンジン搭載車発売 50年で思い出したこと。

マツダ(株)が 1967年(昭和42年)に 初のロータリーエンジン搭載車 コスモスポーツを発売して50年経ち,朝日新聞で 「飽くなき挑戦  ロータリーエンジンの半世紀」と題して特集記事が掲載されていました。

これで 思い出したことがあります。

該当車種が 「コスモスポーツ」だったかどうかは確かではありませんが,2 シーターなのでこの車の可能性が高いと思います。

マツダ(当時の「東洋工業(株)」)が 2 シーターのスポーツ車を売り出そうとしたとき,運輸省(現 国土交通省)の認可(型式認証制度による)がなかなか得られなかった,半ば嫌がらせのような目にあったと何かで読んだ記憶があります。

書かれていた不認可理由として (おそらく) ー
   ①ラジエター・グリルが無くて(はっきりしないデザインで) 車らしくない。
   ②2人乗りスポーツカーは 日本の交通事情に ふさわしくない。

の 非論理的で,認可業務の目的とは関係ない,すんなりとは納得できないことが挙げられていたように思います。
それでも 何とか認可を受け,発売にこぎつけたということです。

「2人乗りのスポーツカーを 他社では造っているではないか。」
の抗議に対しては 「過去に造っている実績がある他社はいい。」と言ったとかー。

因みに 日本のスポーツカー(2 シーター)を思い出すまま挙げると ー

【トヨタ】
「トヨタ・スポーツ800」 1965年(昭和40年)
「トヨタ・2000GT」       1967年(昭和42年)

【日産】
ダットサン・フェアレディ1500」 (3人乗り),1962年(昭和37年)
「日産シルビア(初代)」  1965年(昭和40年)
日産・フェアレディZ(ダットサン240Z)」  1969年(昭和44年)

【ホンダ】
ホンダ・S500/600/800」 1963/64/66年(昭和38/39/41年)

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2017年7月12日 (水)

体育祭種目 「俵運び」,60kgは無理だった。

TVで米一俵の重さの話をしていて,高校の体育祭での「俵運び」を思い出しました。

約50年前の高校の体育祭の種目に クラス対抗の 「俵運び」リレーがありました。

米1俵の重さ 60kg分の砂が入った俵(ドンゴロスなど,布の袋?)を クラス選抜10名(?)がリレーで運ぶという種目でした。

ところが,練習時に,60kgではリレーにならないことが分り,結局 本番は 半分の30kgにしたのです。

まず,60kgを肩に載せて うまく走ることができない。
それ以前に,重心が肩にうまく載ってないと ふらついて動けない。
第一走者は いいにしても,受け渡しで次の走者の肩に重心がくるように載せるのが難しい。
一旦 落とすと 一人では肩まで持ち上げることができない。
ー等々 で 60kg を 30kg に落としたのです。

疑問は 「俵運び」が新種目だったのか?
恒例の種目なら 前年は 60kg で実施したのか?

今となっては 分りません。

Wikipedia にはー

「かつては60 kgの米俵を担ぎあげて運ぶことができれば,一人前の労働者とみなされた(世界大百科事典)。1俵は労働者一人が担いで運ぶ量であり,2俵は馬一匹の積載量であったため,米の出荷・保管・輸送に便利であった。タイなど海外ではいまだに60キロ袋が米の流通に使用されているが,重労働に慣れない現代日本人には60 kgの米俵を扱うことは難しくなり,出荷流通の米袋は 『半俵』 の30kg入りの紙袋包装が普通となった。」
ーとあります。

50年前の高校生は,既に 一人前の労働者とは見做されない体力しかありませんでした。

昔,従兄から聞いた話ー
「 xxばあさんは,土間の掃除をしていて 米俵があるところは 左手でそれを持ち上げて 右手の箒でその下を掃いていた。」

昔の人は力があった!

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2017年7月 8日 (土)

‘The Beatles’が来た頃。

NHK 朝のテレビ小説 「ひよっこ」で ビートルズ来日時のエピソードを放送していました。

ビートルズは 昭和37年(1962年,中学1年生)にレコード・デビューし,昭和45年(1970年,大学3年生)に解散しました。全盛期の頃,私は高校生でした。

それまで聴いていた エルビス・プレスリー,パット・ブーン,ポール・アンカ,ニール・セダカとは全く違う音楽であり,ほぼ同時期に聴いていた ‘Surfin' U.S.A.’,‘Surfer Girl’,‘Fun, Fun, Fun’,‘Dance, Dance, Dance’,‘Do You Wanna Dance?’,‘Help Me Rhonda’,‘Little Honda’などをきれいなハーモニーで歌ったサーフ・ロック・コーラス・グループ ‘The Beach Boys’とも違っていました。

ビートルズが来日したのは 昭和41年(1966年)で,6月30日~7月2日にかけて 日本武道館で公演を5回 行ないました。私は 高校3年生でした。

ビートルズの音楽を聴いてはいましたが,コンサートに行きたいと思うほどマニアではなく,何より 九州に住む高校生にとっては,前年 修学旅行で初めて行った東京は はるか遠くにありました。

ところが,これを逃すと一生後悔すると,学校を休んで東京にコンサートに行った同級生がいたのです。
彼は,おそらく,同級生には内緒で(ひょっとすると数人は知っていた?),密かに東京に行ったのです。
このことを 高校を卒業して30年経った同期会で知りました。
その時,2年前に開通した新幹線は,まだ新大阪までで,九州から東京へは 寝台特急(「あさかぜ」,「さくら」,「みずほ」など )で行くしかありませんでした。
彼が何日間休んだか聞き漏らしました。

彼がどのような理由をつけて休みを届け出たのかは分りませんが,戻ってから担任に正直に話して かなり説教を食らったそうです。
1ヶ月足らずで夏休みが始まり,その間の課外授業が計画されている,大学受験準備に重要な時期に,学校を休んで ビートルズのコンサートのために 東京まで出かけるとは何事かー という内容だったそうです。

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2017年5月 9日 (火)

初めての 「クリームソーダ」は昭和40年。

NHK連続テレビ小説「ひよっこ」で,東京オリンピックの翌年(昭和40年,1965年) 主人公 みね子が就職して東京に出てきた最初の日曜日,失踪した父親を個人的に探してくれている茨城県出身の派出所勤務警察官 綿引と行った喫茶店で 綿引に勧められて注文したのが 「クリームソーダ」でした。

Photo
みね子が初めて食べた(飲んだ)「クリームソーダ」でした。

その同じ年,昭和40年の秋,九州の高校2年生だった私は,関東方面修学旅行での東京自由行動の時間に,東京タワーからタクシーに乗り,「銀座まで」と告げた運転手に 「銀座何丁目?」と訊かれ,神戸一郎の 「銀座9丁目は水の上」という歌で 9丁目がないことは うすうす知っていましたが,何丁目から何丁目まであるのか分らないまま,聞き覚えのある 「4丁目」と答えて着いた銀座の地下にあった喫茶店で注文したのが 「クリームソーダ」でした。

野球部でもないのに丸刈り,学生帽,詰襟学生服,白のズック靴の九州の高校生が,銀座の喫茶店で 「クリームソーダ」,昭和でした。
みね子より 2歳下でした。

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2016年10月12日 (水)

かつて 「タノモシ」があった。

60年ほど前の子供の頃(昭和30年ー1955年前後),幼稚園,あるいは小学校から帰ると 家に近所の奥さんたちが集まっていることがありました。
TVや冷蔵庫はまだなく,やっと電気炊飯器と洗濯機が普及し始めた,あるいは普及し終わった時代でした。

何故か その集まりが 「タノモシ」というのを知っていました。

今,考えると これは 「頼母子講」と呼ばれるもので 辞書で調べればー

「金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し,くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し,全構成員に行き渡ったとき解散する。鎌倉時代に始まり,江戸時代に流行。頼母子。無尽講。」 とあります。

子供として そばにいるだけでは,何をしているのか 定かに理解できなかったとは思いますが,当時の理解は おそらく母親から聞いた説明も加えて 次のとおりでした。

  ・毎月1回の集まり。
  ・会費(?)を集める。(いくらだったのかは不明。)
  ・その月,お金が必要な/欲しい人が 集まったお金を受け取る。
  ・必要な人が複数いる場合はくじで決める。
  ・必要な人がいない場合は 決められた順序で一人が受け取る。
  ・受け取った人は 毎月の会費で返済する。
(各名詞には ‘符牒’があったと思うが 覚えてない。)

おそらく 終戦から まだ10年ほどしか経っておらず,各家庭が急に必要となるまとまった出費への蓄えがない ギリギリの生活をしていた時代の生活の知恵で,上述の定義どおりの 「民間互助組織」であり,加えて親睦を兼ねた集まりだったように思います。
当時あった,民間の借金できる代表的金融機関としては質屋が考えられますが,質草,利子なしで借りられる「タノモシ」は有効だったのでしょう。

小学校高学年,あるいは中学校の頃には なくなっていたように思います。
昭和30年代が進み,生活に僅かに余裕ができ,各家庭がTVや冷蔵庫を持つ時代になっていきました。

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2016年10月 8日 (土)

「ショール姿の真知子がすぐ浮かぶ世代」とは?

10月6日 朝日新聞の天声人語で,最近ヒットしている アニメ 「君の名は。」に関連して かつて (終戦直後),ヒットした 菊田一夫さん脚本の NHKラジオ劇 「君の名は。」に触れていました。

その最終段落に 「<君の名は真知子と答え歳がバレ>と先日の朝日川柳にある。筆者もショール姿の真知子がすぐ浮かぶ世代だ。いま劇場に駆け込む10代,20代はまず真知子を知るまい。・・・ 」とありました。

『ショール姿の真知子がすぐ浮かぶ世代の筆者』 に,やや驚きました。
天声人語執筆者は どの世代で 何歳?

PhotoNHKラジオ放送は 1952年(昭和27年)からであり,岸恵子主演で 松竹が映画化したのが(おそらく これで真知子巻が見られた) 1953年(昭和28年)の63年前でした。

映画化されたとき,団塊世代である1948年生まれの私は5歳,映画は勿論,映画のポスターを見た記憶も残っていません。

「ショール姿の真知子がすぐ浮かぶ世代」が,リアルタイムで 映画やポスターを見た人となると,80代? 若くても70代?
まさかと思い,調べると  「2016/04/01付けで - 『天声人語』の筆者がきょうから交代しました。新たに山中季広(52),有田哲文(50)の両論説委員が執筆します。」 とありました。

私より,16~18歳若く,映画が公開されて10年以上経って生まれた人が 「ショール姿の真知子がすぐ浮かぶ世代」 とのことで,この「世代」の定義がよく分りません。

「君の名は。」は,昭和30年代になっても 時折り,話題になることがあったと思われ,私は 「真知子巻き」を 知っています。

1965年(昭和40年)頃生まれた天声人語執筆者が知っているということは,その後も 折に触れ,「君の名は。」は 話のタネになり続けていたということでしょう。

それでいて 「10代,20代はまず真知子を知るまい。」 とするのは 「ショール姿の真知子がすぐ浮かぶ世代」を どの世代からと考えているのか,興味深いところです。
一つの考えとして 親がリアルタイムに 「君の名は。」を知っていて,親が話しているのを聞いて育った世代なのかも知れません。
もしくは,リアルタイムで見た記憶のある人を除けば,興味,好奇心に由るところが大きく,世代には関係ないようにも思えます。

Photo_31991年 鈴木京香が真知子を演じた NHK 朝の連続テレビ小説でも 「真知子巻き」が見られたようです。

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